パ・リーグ設立70周年、日刊スポーツ紙面でたどる歴史の数々 初年度の一面記事は?

「パ・リーグ設立70周年特別企画」紙面でたどるパ・リーグ1950

パ・リーグ誕生の一面記事は?

2020年はパ・リーグにとって設立70周年という節目の年だ。単純計算で、リーグ発足当時に生まれた人でも70歳。どれだけ長い期間にわたってプロ野球、そしてパ・リーグが愛されてきたかがよくわかる。今までの歩みを振り返るには絶好の機会と言っていいだろう。

一方で、その途方もない歳月は振り返るにはあまりに長い。「10年前の出来事」は鮮明に思い出せるかもしれないが、70年前までさかのぼることは難しい。そこで、今回「パ・リーグ インサイト」は、スポーツメディアの先輩でもある日刊スポーツより、リーグ発足当時の1950年の貴重な紙面をご提供いただいた。「パ・リーグ設立70周年特別企画」と題して、全10回にわたってその歴史を紐解いていく。

今や数多くのファンに支えられる一大コンテンツとなったパ・リーグ。その記念すべき初年度を、日刊スポーツは果たしてどのように報じたのか。

昭和24年11月26日、パシフィック・リーグ創設

第1回で取り上げるのは、プロ野球の世界にパシフィック・リーグが誕生したその記念すべき一面だ。まずは、その記事の概要について簡単に説明したい。

1949年、日本のプロ野球は「プロ野球再編問題」と呼ばれる危機に直面していた。当時の日本野球連盟(現行制度とは異なる)の初代コミッショナーであり、「プロ野球の父」としても知られる正力松太郎氏(紙面中央、眼鏡の人物)が、それまでの8球団から球団数を増やし、2リーグ制とすることを提案したのである。数多くの企業、チームが加盟に手を上げる中で、既存の8球団からは賛成派と反対派の双方が生まれ、対立することになった。具体的な球団は以下の通り。

○賛成派
阪神、阪急、南海、東急、大映

○反対派
巨人、中日、大陽

さらに、ここから阪神が反対派へと考えを変更。賛成4、反対4と事態は完全に暗礁に乗り上げることとなった。迎えた1949年11月26日。こうした状況を打開するため、丸の内東京会館に正力氏のほか、各球団の代表者が集結し、日本プロ野球界の命運がかかる代表者会議を開催。そこでは、日本野球連盟の解体と各球団の自由意志によって新たに構想を練ることが決定された。

そして、最終決定事項として日本野球連盟球団を6球団からなるセントラル・リーグ、7球団からなる太平洋野球連盟(現・パ・リーグ)に解体し、再構築。その後、セントラル・リーグは広島と国鉄の2球団が加盟し8球団となっている。これにより、日本プロ野球に計15チームによる2リーグ制が誕生した。各リーグのチーム構成は以下の通り。

○セントラル・リーグ
巨人、中日、阪神、松竹(大陽から名称変更)、【大洋、広島、西日本、国鉄】

○太平洋野球連盟
阪急、南海、東急、大映、【毎日、西鉄、近鉄】

※【】内は新加盟球団

潤沢な資金を持つ新聞社が存在感を放つ

今回、野球殿堂博物館の学芸員である井上裕太さんに貴重な話をうかがう機会に恵まれた。まず、当時の球団と新聞資本のつながりについてである。

「最初は2リーグ制への布石として、まずは8球団から10球団へ球団数を増やそうという(正力氏の)考え方でした。その中で、最初に新球団候補として挙がったのが毎日新聞社。資金的なところもあると思います。まず毎日を入れるかどうかという議論の中で、こういうこと(再編問題)になっていったのではないでしょうか」

確かに、両リーグのチームの中には毎日の他に巨人、中日、西日本といった新聞社をバックグラウンドに持つチームの存在が目立つ。すでに国民にとっての一大コンテンツとなっていたプロ野球に価値を見出す企業は多かったが、なかでも潤沢な資金を持つ新聞社の存在は一際大きかったはずだ。

さらに、球団を持つ新聞社はファンの野球情報の入手先として大きな役割を担っていたと指摘する。

「テレビがなかった時代の最先端情報と言うのでしょうか。主要たるメディアが新聞でした。ラジオもありましたが、やはり活字で残る新聞の方が強かったのです。例えば、2リーグ制が決定された際は、球団を持つ新聞社を含めた各紙がスポーツ面や社説で精力的に報じていたようです」

現在では野球情報と言えば新聞はもちろんのこと、ラジオ、テレビ、「パーソル パ・リーグTV」のようなネット配信、弊媒体「パ・リーグ インサイト」のようなウェブメディアなど情報源は多岐にわたっている。過去を振り返るには、当時のメディアの状況下も考える必要があるということだろう。

正力松太郎氏は現代ではタイトルの名前にも

2リーグ制誕生のきっかけを作った正力松太郎氏。1977年より、その業績を称える形で「正力松太郎賞」としてタイトルの名前にもなっており、その年のプロ野球界に最も貢献した人物が選出されている。

昨年はソフトバンク・工藤公康監督が3度目の受賞となった。在任5年でチームを3年連続4度目の日本一に導いたその功績は誰もが知るところだろう。このように、通常ではその年の日本シリーズ優勝監督が選ばれる傾向が強い。ただ、近年では2017年にソフトバンクのデニス・サファテ投手が受賞したことで話題に。シーズンセーブ日本記録樹立、リーグMVP、日本シリーズMVPなど数多くの記録を打ち立て、外国人選手史上初の受賞となった。(※監督としては2005年にロッテのホビー・バレンタイン監督も受賞)

紙面に目を移すと、正力氏のコメントも最下部に掲載されている。そこには「今度はプロということを念頭に置いて行動すべきだ。2リーグに分裂した以上両方とも今までよりもっともっとプロらしくせねばならぬ」とある。

現在ではハイレベルなプレーを見せる選手たちはもちろんのこと、魅力的なマスコット、試合を盛り上げるダンスチーム、さらにはそれらを支えるスタッフなど、一つの試合とっても数多くの「プロ」によって運営され、それが興行である野球の魅力を一段と高めている。果たしてこの先の70年間で、どのような進化を見せてくれるのだろうか。

第2回以降では、井上さんによる当時の選手の詳細な解説や、現在の日刊スポーツと70年前の日刊スポーツの紙面比較などを行なっていく。本記事で触れた以外の点からも、さまざまな情報を得ることができる一つの歴史資料として、ぜひとも紙面の細かい部分にも注目してもらいたい。

紙面提供:日刊スポーツ
取材協力:野球殿堂博物館(「パ・リーグ インサイト」編集部)

(記事提供:パ・リーグ インサイト)

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