『誤解』発言で批判集中の加藤大臣 日本語文化を隠れミノにしても無理があるのは明白! 日本語が持つリスクが露に!

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加藤厚生労働大臣は、8日の記者会見でPCR検査に向けた相談の目安とされてきた「37.5度以上の発熱が4日」という見解について見直しを発表。この背景には、発熱しても4日経過していないために、相談に行かなかった人が死亡するなどしたケースがあります。

しかし、加藤大臣はこうした件について「我々からすれば誤解」と発言。それに対し、ネット上では「国民や保健所のせいにしている」や「解釈を変えた」と多くの批判が集まりました。そこにある齟齬の責任の置き場について、実は日本語文化を隠れミノに使ったのではないかと思うのです。

日本語文化の特徴のひとつに、コミュニケーションの責任は「聞き手にある」という考え方があります。会議やプレゼン・講演などの中でも、聞き手側が「何を言っているのかわからない」と感じる人より「わからない私の読解力や知識不足だ」と感じる人が多いのは、実感されたことがあると思います。

また、小中学校の国語でも、小説を読み解く授業はたくさんありますが、小説を書くという授業はほとんどありません。こうしたことからも、日本は聞き手のスキルを求めているのです。

一方で英語圏では、コミュニケーションの責任は「話し手にある」という考え方が一般的です。日本では講演やセミナー後に質問が殺到することはほとんどありませんが、英語圏ではわからないことがあると、次々と質問が出てきます。それは「きちんとわかるように話せ」という文化に裏付けられたものなのです。

こうして見ていくと、聞き手に責任を置く日本語文化はリスキーでスキが多く、早く捨ててしまった方がいいもののように思われるかもしれません。

しかし、そんなことはありません。そのスキや抽象性が、日本の瑞々しい文学をや芸術・芸能を生んできたのです。国文学者で詩人の折口信夫が書いたものが、あまりの日本語の豊かさゆえに永きにわたって英訳されなかったというエピソードもあるほど。また、音楽家ならその一音に、画家ならその一筆に思いを込めます。つまり芸術の作用は、思いを何かに「圧縮」「置き換え」するところから発生するものといえます。

それらを、万人にわかるようにすべて詳(つまび)らかにすることは、芸術を毀損しているともいえるでしょう。

加藤大臣の「誤解」発言は、聞き手に責任を置いて事を済ませようとしたものです。しかし、今回の「37.5度以上の発熱が4日」という目安については、加藤大臣の言うところの「正しく」理解した人はゼロと言っていいでしょう。これで責任の所在を置き換えようとすることが、とうてい無理があるのは明白です。

しかし、そうした人物がこの国の政治の中心にいることを考えると、私たち日本人は、スキの多い日本語の豊かさを楽しみながら、そこに入り込んでくるリスクに注意深く過ごしていかなくてはならないのです。(文◎Mr.tsubaking)

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