MotoGP:ヤマハOBキタさんの「知らなくてもいい話」/転がるタイヤ(中編)

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 レースで誰が勝ったか負けたかは瞬時に分かるこのご時世。でもレースの裏舞台、とりわけ技術的なことは機密性が高く、なかなか伝わってこない……。そんな二輪レースのウラ話やよもやま話を元ヤマハの『キタさん』こと北川成人さんが紹介します。なお、連載は不定期。あしからずご容赦ください。

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 2003年~2007年と5シーズンをMotoGPのレギュラーライダーとして活躍した玉田誠選手もタイヤの選択が人生のターニングポイントになったひとりであったといえるだろう。

 玉田選手の1年目は不慣れなコースに戸惑いつつもブリヂストンのタイヤ開発という重責を担っていたので厳しいルーキーシーズンとなった。それでも終盤のブラジルGPでは表彰台に上がり、またパシフィックGP(ツインリンクもてぎ)でも好走し明るい未来が見えた年でもあった。

 明けて2年目の2004年はシーズン前半のマシントラブルなどの不運もあってリタイアが続いたが、中盤以降はホンダからヤマハに電撃移籍したバレンティーノ・ロッシ選手を完璧に抑え込んで2度の優勝(ブラジルGP、日本GP)を飾るなどして年間ランキング6位を得た。前半の3度のリタイアがなければさらに上位を狙えたであろうことは明白で、久々にチャンピオン争いに絡める日本人ライダーの登場に周囲の期待は膨らむばかりだった。

 そして運命の3年目はそれまでのキャメルホンダを離れてコニカミノルタという日本企業のスポンサーを得てのエントリーとなった。同時にタイヤをブリヂストンからミシュランにスイッチ。本人の意向だったと聞いている。

 前年2度の優勝という結果を出した一方で、タイヤの問題で無念な思いをした事実は拭いがたく、最終的にミシュランにスイッチする決断に至ったものと思われる。

 ブリヂストンの開発も飛躍的に進んではいたものの、ほかのトップライダーと接戦を演じたイタリアGPでのリタイア、そして同GPで同じタイヤを使用する中野真矢選手(カワサキ)のストレートエンドでのリヤタイヤバーストによる強烈な転倒シーン(奇跡的に中野選手に大きな怪我はなかった)。そして同じキャメルカラーのマシンでありながらミシュランを履くマックス・ビアッジ選手の比較的安定した成績は、タイヤをスイッチするに十分な判断材料だったといえるだろう。

■ミシュランタイヤへのスイッチで想定外の結果

 しかし3年目の戦績はランキング11位と本人も周囲も想定外の結果に終わった。前半の3戦は怪我で出走できず、復帰したイタリアGP以降もなんとか10位以内がやっとという状態だった。唯一ホームレースの日本GPで3位と復調が期待されたのだが、翌年の成績はさらに低迷しランキング12位。翌2007年は中野選手にシートを明け渡すことになった。

 最後のシーズンとなった2007年、ダンロップ・ヤマハ・テック3のシートを得た玉田選手は、予選では時折速さを見せるもののシーズンを通して耐久性の低いタイヤに苦しみ、マシンの性能不足と相まってランキング18位に終わった。そして2シーズン続いたプレミアクラスでの復権を賭けたダンロップのチャレンジも幕を閉じたのである。ヤマハ、ダンロップ両社のトップレベルの申し合わせにより国内で1年間の共同開発の末、なんとか実戦レベルに達したと判断してのMotoGP参戦だったが、ライバルとの差はついに埋まることはなかった。

 最後のレースとなったバレンシアの地で彼がお別れの挨拶に来てくれたときは、この快活で礼儀正しい好青年に対して何も手を差し伸べることができなかった我々の不甲斐なさに忸怩たる思いだった。そして2年続けてグランプリの頂点に立ったタイヤがブリヂストンであったことは、玉田選手のみならずさらに大きなうねりとなって多くの人々の運命を変えていくターニングポイントとなったのである。(後編に続く)

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キタさん:北川成人(きたがわしげと)さん 1953年生まれ。1976年にヤマハ発動機に入社すると、その直後から車体設計のエンジニアとしてYZR500/750開発に携わる。以来、ヤマハのレース畑を歩く。途中1999年からは先進安全自動車開発の部門へ異動するも、2003年にはレース部門に復帰。2005年以降はレースを管掌する技術開発部のトップとして、役職定年を迎える2009年までMotoGPの最前線で指揮を執った。

2011年のMotoGPの現場でジャコモ・アゴスチーニと氏と会話する北川成人さん(当時はYMRの社長)。左は現在もYMRのマネージング・ダイレクターを務めるリン・ジャービス氏。

※YMR(Yamaha Motor Racing)はMotoGPのレース運営を行うイタリアの現地法人。