飯田哲也さん証言 全盛期の燕軍団は「どうやったら目立てるかをみんな考えていた」

2019年のヤクルトOB戦に出場した野村克也さん(中央)【写真:荒川祐史】

厳格なイメージの野村克也監督が率いていたが…「何事も頭ごなしにダメということはない。懐が深い人でした」

ヤクルトスワローズの黄金期といえば、野村克也氏が指揮を執った1990年から98年までだろう。毎年のように優勝争いに絡み、リーグ優勝4回、日本一3回。強いだけでなく、おしゃれで明るく、いつも楽し気なムードを漂わせてプロ野球のファン層を広げることに貢献した。当時は俊足・強肩を誇る名外野手で、現在は野球評論の傍ら、母校の千葉・拓大紅陵高の非常勤コーチを務める飯田哲也さんが燕軍団の素顔を明かした。

「あの頃はホントにいい人たちが集まっていたというか、面白かったです。中心の古田(敦也)さん、池山(隆寛)さんが明るかったので、楽しい雰囲気が生まれたのだと思います」と懐かしそうに振り返る。

「前提として、野村監督という“王様”がいて、自分の役割をきっちりこなせる選手が多かった。僕は守備と走塁、土橋(勝征)はバットを短く持って小技を黙々とこなす、という風に駒がそろっていました。外国人選手もことごとく当たりましたし。チームとして結果が出るにしたがって、自信がついていきました。負けてて明るくはなれないですからね」と続けた。

はちゃめちゃなところもあった。「(石井)一久(投手=現楽天GM)なんて、先発する日の試合前もクラブハウスでファミスタとかやってましたもん。抑えの高津(臣吾=現ヤクルト監督)もやってましたね。将棋は、みんながやっていました。みんな、野球には集中していましたし、やるべきことがわかっているので、リラックスする時間を取るのもうまかったと思います」

当時の野村監督といえば厳格なイメージで、試合開始直前のテレビゲームなんてとても許しそうになかったが……「実は、野村さんは何事も頭ごなしにダメということはありませんでした。懐が深い人でした。ファミコンをしていれば、監督室にも『わーっ!』と騒ぐ声が聞こえていたはずで、知らなかったとは思えない。それでいて禁止になっていませんから」と飯田さんは証言する。

現在は母校・拓大紅陵の非常勤コーチを務める飯田哲也氏【写真:編集部】

「胴上げの時に後ろを向いたのは、僕が最初だと思います」

ただし、身なりに関しては厳しかったという。「茶髪、ロン毛、ひげはダメ。公共交通機関で移動する時は、スーツ着用はもちろんですが、革靴にじゃらじゃらしたものがついていたり、スーツと合わない色の靴をはいていると、注意されました。要するに、社会人として印象の悪い身なりをするな、周りの目を気にしなさい、周りに評価される人間になりなさい、ということです」。その上で、個々のスタイル、自由を認めていたというわけだ。

「どうやったら目立てるかを、みんなが考えているようなチームだった」という当時の燕ナインにあって、飯田さんも“爪痕”を残した。

「胴上げの時に後ろを向いたのは、僕が最初だと思います」

1992年10月10日。ヤクルトは敵地甲子園で阪神に勝ち、野村監督就任3年目にして、広岡達朗監督時代の78年以来14年ぶりのリーグ優勝を決めた。しかし、飯田さんは宙を舞う野村監督に背を向け、スタンドを向きバンザイしながらジャンプ。テレビのスポーツニュースや翌日の新聞で、胴上げの最中に1人だけ顔が見えている飯田さんはかなり目立った。「あらかじめ計算していたわけではありません。僕は外野手なんで、優勝が決まってから走っていっても、胴上げの輪の真ん中には入れず手が届かない。それでなんとなく後ろを向いたんだと思います。翌日新聞を見て『こっち向いてるの、おれだけだ』みたいな。最近の胴上げでは後ろを向いている選手も多いですけどね」と笑う。

「一久とかは、まだ携帯電話が普及していない時代に、“写ルンです”(レンズ付きフィルム)を持ち込んで胴上げを撮っていたと思います。巨人なら絶対にやらないようなことをやってました。好き勝手やれる雰囲気がありました」と振り返る飯田さん。「当時のヤクルトについては、メディアに言えないこともいっぱいありますけどね」とニヤリ。穏やかな表情で、かつての偉大で愉快な仲間たちに思いを馳せた。(宮脇広久 / Hirohisa Miyawaki)

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