臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(256)

 余分な罰は受けないものの、関係者は自由の身になるためになぜそんなに時間がかかったのかだれも理解することができなかった。当時の裁判進捗の遅滞を考えると、腹が煮えくり返る思いをした。

 そのころ、ニーチャンは宿舎での少尉補佐の訓練も終え、陸軍中尉に昇格していた。その何ヵ月か前、サンヴィセンテでブラジル陸軍の将校としての召集状を受け取っていた。
 その召集状にはジュセリノ・クビシェック・デ・オリヴェイラ大統領とエンリッケ・バチスタ・ドゥフレス・テイシェイラ・ロット陸軍大臣の署名が万年筆で書かれていた。マサユキは一躍、サントアンドレの知名人となった。
 だが、これから先の進むべき道の選択に迷っていた。一般市民に戻るには職歴を積まなければならない。軍隊にいるあいだ、無給で市役所を休職していた。仕事はあるが、この先、何を勉強すればいいのか? サンパウロ大学と同じごろサントアンドレ市にも経済学部が設けられた。1959年のはじめ、受験し、簡単にパスした。
 新入生にたいするトロッチ(入隊洗礼式懲罰)で、頭を剃られ、まだ、丸坊主のとき、サントアンドレの日系社会の名士たちが家にやってきた。市会議員への立候補を勧めるために正輝に了解をもとめにきたのだ。
 「市には日系人が多数いて、市議会に日系人の議員を送り込もうと、何回も立候補させたが、落選してしまった。立候補と非日系人とのコムニケーションや根回しが不足したのだ。彼のような立候補には日系人以外の票が集り選出される可能性が高い。マサユキやアキミツが入っているABC文化協会の青年会は、彼のために選挙運動をしてくれるに違いない」という。
 正輝は政治運動が大好きで、すでに、アデマールの日系後援会に属しているほどだ。協会の案に即座に賛成した。いかし、ひとつ条件をつけた。
 「生活は苦しく、子どもを食べさせるのもやっとで、住まいもごらんの通りだ。選挙運動には一文も出せない」と告げたのだ。
 訪問者はキャンペーン用の材料、選挙委員会本部の家賃、運送費をふくめた雑費などの選挙運動の資金はすべて彼らが賄うことを確約した。キャンペーンのプログラム作成、訪問する場所や家庭の選択、すべて彼らが準備するとのことだった。もし、計画どおりことが運べば、当選は間違いないともいった。

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