訴追は市民の固有の権利 起訴と情報を独占する検察 検察庁法改正(中)

By 佐々木央

不屈の伊藤詩織さんは民事訴訟を起こし、昨年12月勝訴する。判決後、取材に応じた

 「公訴は、検察官がこれを行う」。刑事訴訟法247条は簡明に宣言する。

 学界の通説はこの条文を根拠に、日本は私人による訴追を認めない「国家訴追主義」であると解する。「訴追」という言葉が難しいので、複数の辞書を引くと「検察官が刑事事件について公訴を提起し、追行すること」(精選版日本国語大辞典)などと説明する。

 どの辞書も主語は「検察官」であり、辞書編集者たちは訴追権限を検察官が独占することに、みじんも疑問を持っていないようだ。 (47NEWS編集部、共同通信編集委員佐々木央)

 そしてわたしたち市民も、自らに訴追権眼があるとは考えてはいない。事件が起きれば警察が捜査し、検察官が起訴・不起訴を判断する。それが当たり前だと思い込んでいる。

 ■私人は刑事裁判を起こせないのか

 そうだとすると、他者によってどんなに理不尽な目に遭っても、私たち一般市民は刑事裁判を起こすことができないということになる。

 実際、そのような目に遭った人はいる。最近ではジャーナリストの伊藤詩織さんがそうだ。伊藤さんの著書「Black Box」によって、ことの顛末をたどる。

 2015年4月、伊藤さんは仕事の相談のため、当時TBS記者だった男性(以下「元記者」)と会う。飲食店で食事をしているうちに記憶をなくし、痛みで目覚めると、ホテルの部屋で、元記者が上にまたがっていた。前後の彼の行動はあまりにひどいが、詳細は著書に譲る。

 伊藤さんは4月末、準強姦容疑で警察に被害届と告訴状を出す。心ない捜査で何度も傷つくが、ようやく8月に帰国する元記者を空港で逮捕すると告げられる。だが、直前にストップ。中止を指示したのは当時の警視庁幹部だった。

 16年7月、東京地検は元記者を嫌疑不十分で不起訴に。その直前の6月、彼は安倍首相を主人公とする本を出版していた。政権と極めて近い記者だったのだ。

 伊藤さんは諦めない。翌17年5月に検察審査会(検審)に審査を求める。検審は市民11人で構成される。8人以上が起訴するべきだと判断すれば「起訴相当」、過半数の6~7人なら「不起訴不当」、それより少なければ「不起訴相当」となる。前2者なら再捜査が必要だ。だが、結果は「不起訴相当」だった。刑事裁判への道は閉ざされた。

 この原稿の(上)で挙げた政治家絡みの【事例1~5】(甘利明氏や下村博文氏のケース)でも、不起訴処分の後、告発者の多くは検審にチャレンジしているが、公判開始には至っていない。

 ■憲法学の敗北ー刑訴法に従属した解釈

 では本当に訴追は、国家(検察官)の専売特許なのか。根本に立ち返るために、新潟大名誉教授で弁護士の鯰越溢弘(なまずごし・いつひろ)さんの著書『刑事訴追理念の研究』(成文堂)を参照する。

 日本は国家訴追主義ではないのだと、鯰越さんは力説する。鯰越さんは著書で、訴追の理念や制度について、現行刑訴法の成立過程にとどまらず、英米法や大陸法との比較法学的な検討や歴史的検証も加え、多面的に考察しているが、ここでは憲法解釈との整合性に依拠した立論を紹介したい。

 「憲法32条 何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪われない」

 この条文は市民の出訴の権利を定めている。そして、日本の通説はこれを民事訴訟と行政訴訟に限定する。これに対して鯰越さんは次のように述べる。

 「憲法31条はデュー・プロセスの保障を規定したものであり、33条以下は、いずれも刑事事件に関連する規定が並んでいる。その中にあって、32条のみが刑事裁判に無関係な規定と解することは、体系的思考にそぐわない」(刑事訴追理念の研究)

 そこで通説は、憲法32条は刑事裁判についてのみ、訴追権ではなく、被告人として裁判を受ける権利と読み換える。ところが「刑事被告人の権利については37条に詳細な規定が置かれている」「32条と37条は明らかに重複するのであって、32条は実質的な意味を持たないこととなる」(同)。

 このような奇妙な憲法解釈が生まれたのは、本稿の冒頭に示した刑訴法247条を根拠にして、「日本は国家訴追主義」と断定したからだ。国家訴追主義に立ち、しかも検察官が起訴独占する制度が採用されているなかでは、私人の訴追権は否定されざるを得ない。

 鯰越さんはこれを厳しく批判する。「下位法である刑事訴訟法の解釈を根拠として、憲法解釈を行うことは、憲法学の『敗北』であると言わざるをえない」(同)

 憲法が私人の訴追を否定せず、むしろ擁護しているとすれば、現行の刑訴法をどう考えればいいのか。

 ■告訴・告発・検察審査会・付審判

 訴追を起訴という一場面に矮小化すれば、私人訴追を認める憲法32条と、検察官による起訴だけを認める刑訴法247条は矛盾し、衝突せざるを得ない。

 しかしもっと広く、警察や検察に起訴の前提となる捜査を開始させたり、検察の不起訴に対して再捜査や再検討を求めたりする行為をも訴追行為と考えれば、現行の刑訴法にも私人訴追の仕組みが確保されている。鯰越さんはそう説く。

 前者の捜査を駆動させる仕組みが告訴・告発であり、後者の不起訴への異議としては検審への申し立てがある。検審が2度、起訴相当と議決すれば、裁判所が指定する弁護士が検察官に代わって起訴する「強制起訴」という制度も用意されている。これはまさに、私人訴追ではないか。

 ほかに、公務員の職権乱用罪などについて、検察官が不起訴処分にした場合、告訴・告発人が裁判所に審判に付すよう請求できる「付審判請求」もある。裁判所が付審判決定をすると、起訴と同じ効力を持ち、前述の強制起訴と似た仕組みで審理が進む。

 問題は実際の運用では、こうした手続きによる起訴への道が非常に狭いことだ。

 既に見たように、近年、政治家絡みの事件が軒並み不起訴になっている。市民の常識に照らして、明らかに起訴すべきだと思う案件でも、検察は消極的な判断を重ねている。ならばと、検審に審査を申し立てても、起訴相当と議決されることは少ない。起訴相当や不起訴不当の判断で検察が再捜査した場合も、元の判断(不起訴)を維持することが多い。

 付審判請求に至っては、ほとんど発動されないから、制度を知っている人の方が少ないのではないか。

検察庁法改正案の今国会成立を断念し、報道陣への対応を終え引き揚げる安倍首相=18日夕、首相官邸

 ■私人訴追主義は民主主義の実現

 だからツイッターデモが目指すべきゴールは、決して検察庁法改正案の廃案や検察人事への政治介入の阻止ではない。一方で、時の政権に忖度したかのような検察の結論に非を鳴らし、他方で、起訴・不起訴の判断に市民の常識を流し込む道を広げることだ。

 私人訴追主義の発展は「訴追の民主化」と言い換えることもできるだろう。そのとき決定的に重要なのは情報だと思う。市民の政治参加においても、正確で多様な情報が不可欠なのと同じだ。

 だが、メディアに働く者として現状を見たとき、検察当局の情報開示はあまりにも不十分だ。彼らの意識は「由(よ)らしむべし、知らしむべからず」の時代のお役人と同じなのではないか。そう疑ってしまうほどに。

 それは訴追の民主化を阻む。情報を扱うメディアと検察との関係も損ない、不健全なものにしている。このたび問題となった黒川弘務氏と記者たちの賭けマージャンについても、この構造的な要因を見逃してはならない。(この項続く)

民意とOB意見書の乖離 検察庁法改正問題(上)

https://this.kiji.is/635792868858889313?c=39546741839462401

情報開示しない最強組織 検察庁法改正(下)

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