自称天才編集者・箕輪厚介氏だけではない 1990年代編集者は「俺たちが文化を作ってきた」感があった|中川淳一郎

写真はイメージです。

平成の時代を振り返る当連載、編集部より「終始、外注の女性ライターに対して上から目線・ため口 こういった編集者って平成、1990年代に結構いませんでしたか?」ということで『私が出会ったため口、外注に上から目線編集者』というお題をもらった。

1990年代に限らず、編集者に限らず下請けというものはそういった扱いをされがちだが、「雑誌黄金時代」ともいえた1990年代はその傾向が強かったといった感覚は私もあった。私がライターになったのは2001年だったが、1997年~2001年までは広告会社の社員だった私は編集者という職種の人は「崇めるべき存在」といった扱いだった。

何しろ、雑誌編集者こそ時代を作っていると言われてきたのだ。編集者と会ってもこんなことを言われた。

「結局テレビなんてもんは、オレ達が作った企画を基に企画を作ってるだけなんだよ。おたくら広告代理店もウチらに取り上げてもらいたいからこうして今日、来たんでしょ?」

実際、我々も編集者と飲むこともあったが、常に彼らはライターを周囲にはべらし、我々に対してエラソーだった。当然会計はこちらもちで、ある時など「副編集長」のオッサンが我々広告会社の若手に絡み始め「お前の企画はなってねぇ」「お前はつまらねぇ」などと言い、会がお開きになった後に渋谷の街で「次行くぞ!」と二人でどこかに行った。その後、なぜか私の同僚はこの「副編集長」とやらから路上でボコボコにぶん殴られてしまった。その後も朝まで飲みに付き合わされたという。それだけ当時の編集者はエラソーだったのである。

橘玲氏の著書『80’s エイティーズ—ある80年代の物語』は、80年代の編集者を描いているが、当時のマガジンハウスが羽振りがよく、下請けとして仕事をした橘氏らはギャラを好きなように請求していいと言われ、あり得ない高い金額を書いた。するとアッサリと通り、これだったら1桁多く書いても良かったのでは、と仲間内で話す記述がある。

また、同社の名物編集者はアフリカで象を1頭買い、その領収書が通ったという伝説もある。真相についてはマサイ族が領収書を切ってくれなかったため云々などとされるが、当時の雑誌編集者は「オレ達が文化を牽引している」的な側面があった。

そんな中、ライターである。現在50代後半のライターはいちばん「おいしい」思いをしてきた面がある。「カルチャー系のセミナーに呼ばれて1回50万円もらった。全国各地で同じ話をするだけで大金をもらえた」といった話があるが、雑誌黄金期以降にライターになった私はそんなおいしい思いは一度もしたことがない。

むしろ2000年代以降の編集者・ライター関係の方が上下関係は強いのでは、とも感じている。特に男女で、だ。私の場合編集者もやればライターもやる、という立場だし、常にフリーであったため「社員よりエラくない」という立場であり続けた。エラソーにしてライターから仕事をやめられてしまうと途端に下請け編集者としては発注主に顔向けできぬため、基本的にライターには「感謝する」というスタンスでいた。

ただし、カネにガタガタ言ってきたり、経費の使い方があまりにもセコいライターは即切る、といった対応は取ってきた。そういう馬鹿とは一緒に仕事ができない。

という私の置かれた状況と時代背景を踏まえたうえで、これまでに聞いてきた「編集者・ライターあるある」を箇条書きにしてみる。大体文字面を見れば想像できるだろう。基本的に編集者は「男」で、ライターは「若い男女、特に女性に対しての扱いがぞんざい」といったところがある。

あ、その前に自分のライター時代のことをいえば、「朝の3時だろうが電話に出るのは当たり前。打ち合わせを『今から会社来れる?』と言われて『はい』と言うしかない」というものや、

「『今回取材した○○さん、言ってることがつまらないので、ナシで。新しい人見つけといて』と平然と言う」「『ライターは編集者が言われたことをやればいいんだよ。こっちが忙しいから代わりにやってもらってるってだけなんで。オレの方が仕事はできるので、その手足となっているだけってことを忘れるなよ』と平然と言う」といったことはあったな。

2つ目に関しては、そもそも「○○さんを取材して」と言ったのはお前だろ! と思うし、こちらは○○さんに謝罪をしなくてはいけないし、新しい取材相手を急遽見つけなくてはいけない。下請けってそういうもんだな、という扱いを受け続けてきた。だったら自分がやるべきは何かといえば、商売の上流に位置した場合、同様のことを行うのではなく、その「ゴーマンの連鎖」を自分のところで止めることである。かくして私はエラソーな編集者を反面教師に低姿勢な編集者を長年やり続けている。

ちょっと、他人のことを書こうと思ったらオレのことでもけっこうあるじゃねーか。よし、自分自身のことを書いてみる。

もっとも思い出すのが某大手出版社が2001年、911テロの後に「乗るしかない、このイスラムブームに!」とばかりにイスラム教に関するムックを急遽編集することとなった時のこと。

私は急遽駆り出されたのだが、完全に便利屋扱いとなった。元々仲介者からは「1ページ3万円はもらえるんじゃないかな」と言われたのだが、自分が担当した8ページの合計ギャラは6万4000円。しかも朝日新聞まで何度も写真を買いに行かされ、その分のギャラはゼロ。現場の編集者がつくわけでもなければ、自分でラフ(設計図のようなもの)を作るし、デザイナーへの指示も行う。時給は480円ほどだった。

しかも、クソみたいな扱いを受ける。元々その本は著名な教授が「監修」として入り、各著者はページごとに「文/○○」となるはずだった。だが、そこは一切なく、そのムック辞退がこの教授が「著者」ということになっていた。中を開けると有名な著者のみ「文/○○」となり、この教授が「監修」をしたことになっていた。私のような無名フリーライターが書いたものは、その教授が書いたことになっていた。

全体的にこの時担当したKという男は「小狡い」「小賢しい」「小金持ち」といった形で「小」が似合うセコい男だったが、クソ編集者について書いているといくらでも出てくるのでここらで一旦やめておく。(文◎中川淳一郎 連載『俺の平成史』)

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