本当の明智光秀は「三密」!? 信長、部下、妻との意外な関係

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今年の大河ドラマの主人公として注目を集める戦国武将・明智光秀。これまで「逆臣」「謀反人」のイメージが強かったが、本当はどんな人だったのだろうか。大津市に残る光秀ゆかりの史跡や史料などから、その人物像を探った。

(1)信長評価

光秀にとって重要な城の一つが、琵琶湖に面して建てられた坂本城だ。JR大津駅から国道161号を北に向かって約20分、坂本城址公園から約200メートル北の計測器メーカーの研修所付近にあった。

1571(元亀2)年9月、織田信長は敵対する山門(延暦寺)を焼き討ちする。当時、宇佐山城(大津市南志賀町)を任されていた光秀も参戦。その功績が認められ、滋賀郡(現在の大津市域)を与えられ、坂本城の築城を命じられた。

坂本城は、経済的にも軍事的にも重要だった。大津市歴史博物館の学芸員和田光生さん(60)は「坂本城の周辺は当時、琵琶湖の水運を使ってさまざまな物資が集まり栄えていた。また水軍を使った軍事行動の拠点にもなった」と指摘。その上で「その坂本城を、尾張から長年従う家臣もいる中で、比較的知り合って日が浅い光秀に任せたのは、信長が優秀な人物と評価していたからではないか」とみる。

坂本城の発掘はほとんど行われていないため、全容は明らかになっていない。現在、本丸跡付近には案内板が立てられており、光秀が見た琵琶湖の風景が楽しめる。

(2)部下思い

滋賀郡を任され、坂本城主となった光秀だったが、領内は平穏ではなく、部下が犠牲になった戦いもあった。その一つが、1573(元亀4)年の今堅田の戦いだ。大津市坂本5丁目の西教寺には、この戦いで犠牲になった部下たちを弔うため、寺に供養米を奉納した際の古文書「明智光秀直筆寄進状」が残る。

この頃、室町幕府最後の将軍足利義昭と信長が対立するようになり、義昭勢が今堅田(現在の大津市今堅田辺り)にとりでを建造。光秀は他の武将たちと攻撃して陥落させるも、配下の将兵を失った。

古文書には、その際に亡くなった18人の武士の名前が記されている。注目されるのは、「中間(ちゅうげん)」と呼ばれる身分の低い武士にも、他の武士たちと同様に「壹斗貮升」の米を寄進している点だ。同寺僧侶の中島敬瑞さん(50)は「光秀は、名字のない部下にさえ厚く供養する気配りをするように、部下を大切にした」と評価する。「当時の風習や社会通念にとらわれず、自分が正しいと思ったことを貫く意志があったのではないか」と思いをはせる。

(3)愛妻家

西教寺には、さらに光秀の人柄にまつわる場所がある。静寂な境内の一角、明智家の墓が並ぶその一番端に、他と比べて小さく古い墓がある。光秀の妻、煕子(ひろこ)のものと伝わる。

煕子は、光秀と同じ美濃出身と伝わり、光秀が越前で貧しい生活を送っていた頃、自身の黒髪を売って資金を工面するなど、夫に尽くしたエピソードが残る。

煕子は、1576(天正4)年に亡くなる。当時、光秀は信長から丹波攻めを命じられるとともに、越前の一向一揆や石山本願寺の攻略にも参加し、戦いに明け暮れていた。多忙のため体調を崩した光秀だったが煕子の看病で回復。だが、今度は煕子が病に倒れて帰らぬ人となった。

西教寺に残る、僧侶たちが記した古文書によると、煕子は坂本城で亡くなり、同寺で葬儀が営まれた。妻が夫より先に死んだ場合、夫は葬儀に出ない習わしだったが、光秀は煕子の葬儀に参列したという。

現在、光秀の命日とされる6月14日には毎年、明智一族をしのんで追善法要が営まれている。明智光秀公顕彰会の創立時からのメンバー、能仁隆さん(82)=大津市坂本6丁目=は「光秀と煕子は夫婦仲が良かったのだろう。律儀で愛情深い光秀の人柄がうかがえる」とほほえむ。

(まいどなニュース/京都新聞)