謎の男「ジョーカーマン」ボブ・ディランの音楽はイマジネーションの泉 1983年 10月27日 ボブ・ディランのアルバム「インフィデル」が発売された日

ボブ・ディランが歌う謎の男「ジョーカーマン」

 ジョーカーマンが
 ナイチンゲールの調べにのせて踊る
 鳥が月明りをあびて空高く舞う
 おぉ、おぉ、ジョーカーマン

なんと静謐で幻想的なスケッチだろうか。月明りの下、美しいメロディーに合わせてステップを踏む謎の男=ジョーカーマン。その遥か頭上を鳥が影絵のように舞っている。

靄がかかったような柔らかなサウンドが、この光景をロマンティックに彩る。まるでここだけ時間の流れが違うかのように。そして、この世界の何処かにも、こんな場所があるのかもしれないと、聴く者を夢の中へいざなうのだ。

アルバム「インフィデル」のオープニングを飾るナンバー

ボブ・ディランの「ジョーカーマン」は、1983年10月27日にリリースされたアルバム『インフィデル』のオープニングを飾るナンバーだ。この歌に意味を求めるのは難しい。あるのかもしれないし、元から意味などないのかもしれない。それはディランがこれまで生み出してきた多くの歌にも言えることだろう。

ディランの歌詞は読み解くのではなく、音楽に合わせて感じるものだ。綴られた言葉、フレーズ、そして韻。それらの連なりが醸し出す鮮やかなイメージに心が震えた時、ディランの音楽は一生の友となる。

歌は美しく韻を踏みながら展開していく。例えば前述のジョーカーマンが登場するサビの部分では、tune(調べ)と moon(月)が響き合い、音楽と月が特別な関係にあることを示唆して見せる。

曲の主人公に語りかけるディランの言葉とは?

この歌の主人公は、不穏な航海を続ける船の舵を握っている。彼は水の上に立って自分のパンを与えることさえできる男で、ハリケーンが行く手を阻もうとも、未来を怖れたりはしない。常に心の中にいる迫害者の一歩先を進んでいく。

なんだかよくわからないが、そういうことらしい。もしかすると、彼は何か大きな使命を与えられているのかもしれない。ディランはそんな彼にこんなことを語りかける。

 自由はあなたのすぐそこまで来ている
 しかし、真実がそんなに遠いなら
 それに何の意味があるのだろう?

深い洞察だ。そんな気がする。とにかく胸に残るフレーズである。それでも彼の旅は続く。彼がいつだって確信に満ちているのは、おそらく、自分のすべきことを知っているからだろう。彼は雲の上も歩けるし、群衆を操ることも、夢を捻じ曲げてしまうこともできる。しかし、ディランはそんな彼にこう語りかける。

 気にすることはない
 あなたの妹と結婚したいと思う者は
 誰もいやしないさ

豊かなイマジネーションで描き出される多彩な登場人物

全然わからない。ただ、そんなことを言われるのは、彼が孤独な人だからかもしれない。人は彼を畏れ敬うが、近づきたいとは思わないのだ。彼は燃え盛る炉の中を覗く。すると、そこには名前のない金持ちがいる。名前のない金持ち…。まるで何かを象徴しているかのようだ。

彼の旅は続いて行く。ディランの豊かなイマジネーションが、たくさんの登場人物を描き出す。ミケランジェロ、ライフルを持った男、病人、宣教師、司祭、娼婦。密林と海の掟に導かれるように、彼は旅を続ける。そして、喧騒を離れ、星が降るような野原で休息を得る時、子犬が寄って来て、彼を顔を舐めるのだ。

そんな彼の旅とは別の場所で、ジョーカーマンは踊っている。月明りの中で。頭上を飛び交う鳥たちの下で。この静と動の対比が美しい。彼にとってジョーカーマンは指標のような存在なのだろう。自分の身に何が起きても、ジョーカーマンがあの場所で踊っている限り、彼は大丈夫なのだ。

結局、ジョーカーマンとは誰なのか?

そして、歌はいよいよクライマックスを迎える。僕が好きなのは次のフレーズだ。

 警棒と放水銃、催涙弾、南京錠、
 火炎瓶と石が
 あらゆるカーテンの影に隠されている
 不誠実な裁判官が
 自分で仕掛けた網にかかって死んだ
 夜が忍び寄ってくるのは
 時間の問題だった

よくわからないけど凄い。この切迫感。もうあまり時間は残されていないのか。彼は生まれたばかりの王子を通りから連れ去ると、娼婦の前に置こうとする。その様子を見たディランが、ジョーカーマンに語りかける。

 おぉ、ジョーカーマン
 あなたは彼が何を望んでいるのか
 知っているはずだ
 おぉ、ジョーカーマン
 あなたは何の反応も示そうとしないのか

ジョーカーマンは踊り続ける。何があろうとも。月明りの下で。ナイチンゲールの調べにのせて。おぉ、ジョーカーマン。

ジョーカーマンとは誰なのか? 彼とジョーカーマンは同一人物だったのか? そして、月の光に照らされた世界は何処にあるのだろう? わからない。この歌を読み解くことなどできるはずもない。そもそも最初から意味などないのかもしれない。それなら、ただ感じればいい。この豊かなイマジネーションの泉に触れ、音楽が流れる間、もし心の中を風が吹き抜けていったなら、そんな幸せなことはないのだから。

カタリベ: 宮井章裕

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