「村上春樹を読む」(104)思い出した幾つかのこと 「村上RADIO」特別番組の夜に

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『羊をめぐる冒険』(講談社文庫)

 皆さんは聴きましたか。5月22日夜の「村上RADIOステイホームスペシャル~明るいあしたを迎えるための音楽」。

 村上春樹がパーソナリティーのラジオ番組「村上RADIO」の特別版で、2時間の放送でした。新型コロナウイルスの感染拡大で「もやもやと溜まっているコロナ関連の憂鬱な気分を、音楽の力で少しでも吹き飛ばせるといいのですが……」という、趣旨での放送。東京FMのスタジオからではなく、自宅の書斎から、村上春樹が普段使っているプレーヤーで、自分が選んだ曲をかけていました。2時間のstay homeでのディスクジョッキーでした。

 ラジオというものはいいもので、私は知り合いから来た数通のメールの返信を書きながら聴いていました。「雨に濡れても」「ヒア・カムズ・ザ・サン」「虹の彼方に」「この素晴らしき世界」「マイ・フェイヴァリット・シングス」「黄色いリボン」……。知っている曲がたくさんあったせいもあるかもしれないのですが、なんか……楽しかったです。

 音楽の歌詞の好きな部分を村上春樹自身の言葉で紹介しながら、曲をかけていったのもわかりやすく、なぜその音楽を選んだのかがよく伝わってきました。

 一番、よかったのは、村上春樹がリラックスして、楽しんでディスクジョッキーをやっていることが、聴いている者に伝わってきたことでした。そういうものって、ラジオを通しても、ちゃんと伝わってくるのだなぁ……と思いました。聴き終わって、何か、ゆったりとした気分になりました。

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 この放送での音楽以外のことを少し記しますと、コロナウイルスの問題が起きてから、村上春樹は20年以上も使っていなかった万年筆を机の奥から引っぱり出してきて、新しいインクを買って、字を書いているそうです。そんな日常生活の小さな変化の幾つかを見つめることの大切さ、その日常の小さな変化から、大きな変化の姿を考えていくことの意味を話していました。

 万年筆に関しては『海辺のカフカ』(2002年)の「佐伯さん」は太いモンブランの万年筆を使っていましたし、『ねじまき鳥クロニクル』(1994年―1995年)の「クミコ」はモンブランのブルー・ブラック・インクを愛用していますので、モンブランの万年筆と青いインクかな……と思いました。

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 また、ノーベル医学生理学賞を受けた山中伸弥さんから<春樹さん。一生のお願いなんですが、僕にもラジオネームをいただけませんか? 山中>というメールが来たそうで、山中伸弥さんへ「AB型の伊勢エビ」というラジオネームを村上春樹が贈っていました。

 山中伸弥さんはコロナウイルス問題で、自分のサイトを作って、一般の人が必要とする情報を提供したり、メディアで発言したりと、たいへん頑張っていますが、今度、山中伸弥さんが、コロナウイルス問題で、テレビに登場する時には、その姿を観ながら「AB型の伊勢エビ」と思ってしまうかな……と、ラジオネームなのに、そんなことを考えました。

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 また、視覚障害者の伴走者として、10キロレースを走った体験も村上春樹は話していました。手と手を紐でつないで走るのですが、目の見えない人と一緒にレースを走るのは慣れないとむずかしいそうです。スピードも相手に合わせて調整しなくてはいけないし、路面の情報も正確に素早く伝えなくちゃいけないのでたいへんなのだそうです。

 村上春樹がそのとき走ったのは、厚木の米軍飛行場だったようですが「飛行場って意外に路面が荒れていて、けっこう危ないんです。つまずいたりしないように注意を払いました」という言葉を聞いて、「えっ、厚木の米軍飛行場……!」と私(小山)は思い、ちょっと個人的なことを思い出したりしていました。

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 まだ記者になって、4年目ぐらいの時(1976~77年頃)、神奈川県の厚木通信部というものの担当となり、1年間、厚木市で生活したことがあります。

 米軍厚木基地は海上自衛隊厚木基地と共用使用基地で、海上自衛隊第4航空群司令部があります。まだ厚木の自衛隊を取材する記者が少ない時代でしたが、担当エリアにあるので、取材を申し込んで、何度か厚木基地に行きました。

 最初は、随分、煙たがられていましたが、繰り返し行くうちに司令官と話すようになり、戦争中の話を聞く機会などもありました(司令官は、戦争中、軍にいたことがある方でした)。まだ暗いうちに(夜が明けきらぬうちという意味かと思いますが)硫黄島まで、戦争中、飛行したことがあると話していました。当時は、戦争を知る人たちがたくさん生きている時代でした。

 ですから、厚木基地の飛行場も何度も見る機会があったのです。でも飛行場を走ったり、歩いたことはないので、そんなに凸凹があるとは知りませんでした。基地の飛行機による騒音への訴訟も起きる頃でしたので、基地のフェンスの外側からも飛行場を何度も見たこともあるのですが、私の中での同飛行場の滑走路は真っ平らなイメージでした。

 そう言えば、厚木基地の飛行場は、1945年8月30日、ダグラス・マッカーサーが降り立った場所ですが、その日、厚木基地から横浜のニューグランドホテルまで、マッカーサーの乗った自動車を先導したという人の話を取材したこともありました。そんなことも思い出したのです。

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 こんな調子で書いていくと、私の思い出だけで、今回の「村上春樹を読む」が終わってしまいますね。

 この連載も100回を超えたので、『風の歌を聴け』(1979年)から村上春樹作品を読み返していく、小さな読書会みたいなものも考えていたのですが、それもコロナウイルスの影響を受けて、少しだけ延期となってしまいました。

 でも、読み返すことは自分なりに続けていて、今回は『羊をめぐる冒険』(1982年)について考えてみたいと思っていました。

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 この長編には「先生」と呼ばれる右翼の大物が出てきます。作中「名刺の人物は右翼の大物だよ。名前も顔も殆んど表に出さないから一般にはあまり知られてはいないが、この業界では知らないものはいない」と、「僕」の仕事の「相棒」が説明しています。

 この「先生=右翼の大物」は児玉誉士夫を思わせる人物ですが、『羊をめぐる冒険』に出てくると言っても、「先生」が直接出てくるわけではなく、「先生」の第一秘書で黒服を着た組織ナンバー・ツーの男(日系2世でスタンフォードを出て、12年前から先生の下で働いている人)と、「先生」が脳の血瘤で倒れるまで、先生専用の車である「潜水艦みたいな」「金属製のクッキーの型を伏せたみたい」な巨大な自動車の運転手が登場するだけです。

 「先生」は、戦後、占領軍にA級戦犯で逮捕されたものの「調査は途中で打ち切られて不起訴になった。理由は病気のためだが、このあたりはうやむやなんだ。おそらく米軍とのあいだに取り引きがあったんだろうな。マッカーサーは中国大陸を狙っていたからね」と「相棒」が話していますが、児玉誉士夫もA級戦犯の疑いで占領軍に逮捕されたことがあります。

 でも「先生」と児玉誉士夫は生地が異なりますし、「先生」の名前は4文字のようです。児玉誉士夫は5文字なので、「先生」=児玉誉士夫ではありません。

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 政界の闇の黒幕だった、その児玉誉士夫が、一般庶民の間に知られるようになるのはロッキード事件の時です。ロッキード事件で、児玉誉士夫が逮捕されるのではないかというので、マスコミ各社が東京都世田谷区等々力の児玉邸の周辺に24時間、毎日、記者を配置しました。

 また私の話で恐縮ですが、厚木に転勤する前に、川崎・溝ノ口近くに住んでいたので、たぶん家が近いからという理由だったと思いますが、この「児玉番」というものの担当を命じられました。

 まだ薄暗く、夜が明けきらぬうちに、車が迎えにきて、児玉邸に到着する頃に、夜が明けてきます。私が到着すると、それまでの担当だった記者の車が移動して、そのスペースに、私の車が入っていくのです。長い時には、それから6時間、車の中で過ごしました。

 歴史に残る大事件での「児玉番」と言っても、車の中で、その時をただその場に留まって待っているだけで、異常がなければ、特に何もすることはなく、社内で、ラジオを聴き、新聞を読み、本を読む……という時間です。もちろん、車外に出て、伸びをしたり、知り合いの他社の記者と立ち話をしたりはしますが、基本的に、車のある場所に留まっていなくてはなりません。

 最初は、ただ車が並んでいるだけでしたが、次第に車の数が増え(おそらく近所から苦情が出たのかもしれませんが)臨時派出の警察官が整理に当たるようになりました。食事は、会社の人が各場所の張り番記者を車で巡回して弁当を配ってました。

 さらに、弁当にあきれば「児玉邸通用口から何台目の車ですが……」と頼むと、近くの中華料理店がラーメンの出前までしてくれるというようにもなりました(最初に、ラーメンの出前を頼むということを考えた記者は、何か、偉いと思いました……)。

 いやいや、今回の「村上春樹を読む」は、ちょっと、私事にわたることで、脱線につぐ脱線で、恐縮です。

 こんな経験があるので『羊をめぐる冒険』で「先生」のことが出てくる場面では、つい児玉誉士夫のことを考えてしまうのです。

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 この『羊をめぐる冒険』は、デビュー作『風の歌を聴け』、『1973年のピンボール』(1980年)に続く、初期3部作(「僕」と、その分身的友人「鼠」が動かしていく物語)の最後の作品ですが、村上春樹自身が「この作品が小説家としての実質的な出発点だったと僕自身は考えている」(『走ることについて語るときに僕の語ること』2007年)、「『自分のやろうとしていることは、方向として間違っていない』という確かな手応えを得ることもできました。そういう意味で『羊をめぐる冒険』こそが、長編小説作家としての僕にとっての、実質的な出発点であったわけです」(『職業としての小説家』・2015年)と書いている物語です。

 それまでの2作と、どのように異なっているのか。それは、村上春樹が、物語作家として、しっかりとした手応えを感じた作品ということだと思います。

 『職業としての小説家』には(それまでの作品は)「その『すかし方』がたまたま目新しく新鮮であったということです」とありますし、『走ることについて語るときに僕の語ること』には、ジャズ喫茶の「店を経営しながら『風の歌を聴け』や『1973年のピンボール』みたいな感覚的な作品を書き続けていたら、早晩行き詰まって、何も書けなくなっていたかもしれない」と書かれています。

 私にとっては『風の歌を聴け』や『1973年のピンボール』もたいへん味わい深い作品ですし、そのことはこの「村上春樹を読む」の中でもさまざまな角度から書いてきていますが、「長編物語作家」という視点に立てば、村上春樹が述べている意味はよく伝わってきます。

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 1984年1月17日、児玉誉士夫は72歳で亡くなりますが、その時、私は社会部で新宿警察署を担当する事件記者でした。

 そして『羊をめぐる冒険』は、その2年前、1982年の文芸誌「群像」の8月号に掲載されて、同年10月に刊行されています。つまり、まだ児玉誉士夫が生きている時に、書いた作品です。そのことは、とても大切なことだと思っています。

 もちろん、これは「先生」=児玉誉士夫であることを述べたいわけではありません。前述したように、生地も名前の文字数も異なるわけですから。「先生」はあくまで、『羊をめぐる冒険』の中で闇のように存在する登場人物です。深い闇ですが。

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 『羊をめぐる冒険』の終盤、「僕」が北海道の十二滝町の台地に建つ「アメリカの田舎家風の古い木造の二階建ての家」に至ります。40年前に「羊博士」が建て、そして「鼠」の父親が買いとった建物です。僕の友人「鼠」が暮らし、自死した家です。

 「僕」は、その家の書棚にあった一冊の古い本が、ごく最近に読まれたらしいことを発見します。『亜細亜主義の系譜』という戦争中に発行された本でした。

 それは亜細亜主義者たちの氏名・生年・本籍が掲載された本で、この中に「先生」の名前があり、「僕をここまで連れてきた『羊つき』の先生だ。本籍は北海道――郡十二滝町」と書かれていました。

 このように「先生」は北海道の「十二滝町」の出身。黒服の秘書も「先生」は「北海道の貧農の三男坊に生まれ」たことを語っています。そして、児玉誉士夫は福島県の出身です。

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 「先生」との関係者としては、黒服の秘書と、紹介したように「先生」の専用車だった自動車の運転手が登場しますが、この運転手と「僕」との会話が、とても面白いものです。

 例えば、この運転手はクリスチャンです。それを聞いて、「僕」は「しかしクリスチャンであることと右翼の大物の運転手であることは矛盾しないのかな?」と問います。

 それに対して、運転手は「先生は立派な方です。私がこれまで会った中では神様についで立派な方です」と答えて、話が進んでいくのです。

 今回の「村上春樹を読む」は、この運転手と「僕」の興味深い会話を紹介し、考えてみたいと思ったのですが、ここまででも、随分と長い文章となってしまいましたので、次の回にそのことを記してみたいと思います。

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 村上春樹の「村上RADIOステイホームスペシャル~明るいあしたを迎えるための音楽」を聴いて、思い出すことが幾つか重なり、今回のコラムで、私事を記してしまったことを申し訳なく思います。

 次回の「村上春樹を読む」を書く時には、コロナウイルスの問題がより穏やかに推移していることを祈り、願っています。(共同通信編集委員 小山鉄郎)