スラッシュメタルといえばスレイヤー、帝王へと昇りつめたな過激な異端児 1983年 12月3日 スレイヤーのデビューアルバム「ショウ・ノー・マーシー」がリリースされた日

2019年、40年の歴史にピリオドを打ったスレイヤー

来たる6月3日は、スラッシュメタルの帝王、スレイヤーのギタリストであるケリー・キングの56回目のバースデーだ。さらにその3日後の6月6日には、ヴォーカル / ベースのトム・アラヤが59回目のバースデーを迎える。

スレイヤーは2019年11月末のライヴをもって、約40年近くに及ぶ活動の歴史の幕を閉じた。彼らが登場した80年代当初、その過激な音楽性から、ここまで息の長いバンドとして活動し続けるとは、全く想像できなかった。

LAメタルの対極に位置するアンダーグラウンド臭

僕がスレイヤーを知ったのは、高校時代のバンド仲間が貸してくれたデビュー作『ショウ・ノー・マーシー』のLP盤を通じてだった。今はなきマニアックなメタルレーベル、FEMS からリリースされた日本盤のジャケットは、おどろおどろしいムードを漂わせており、帯には「衝撃のステージングで話題集中!! 恐怖のLAメタル・バンド “スレイヤー” デビュー!!」と、勇ましい宣伝文句が書かれていた。

LAメタルムーブメントといえば、ラットやモトリー・クルーのような煌びやかなイメージのバンド群をまず想起するが、スレイヤーは、その対極に位置するアンダーグラウンド臭を漂わせていた。

バックカヴァーにはライヴ写真が載っており、十字架を逆さにかざしたメンバーをはじめ、目つきのヤバさが尋常ではない。中面には、血まみれで横たわる金髪女性をメンバーが取り囲み、今にも襲いかからんばかりのアー写。高校生だった僕には刺激が強すぎたほどだ。そのキワモノぶりは、80年代の初頭に洋楽誌の広告で初めてヴェノムを見たときの衝撃に近いものを感じた。楽曲タイトルも、悪魔、反キリスト、死、黒魔術などのワードがずらり並んでいる。

こんなレコードをよくぞ買ったものだ、と半分呆れつつ聴いてみると、ハードコアと正統派メタルの要素を絶妙にミックスさせた、激しいけど意外にも整合性のあるメタルが流れ始めたではないか。同時期のメタリカのザクザクとした激しさに比べると物足らなかったけど、それはチープなプロダクションに起因する部分も大きかったと思う。

それでも、吐き捨てるようなトムの絶唱、ギターのジェフ・ハンネマンとケリーによる意図的にスケールアウトさせたスリリングなソロと叫ぶようなアーミング、デイヴ・ロンバードの超絶技巧の高速ドラミング… と、スレイヤーの基本形を確認することができた。

1986年、スラッシュメタルがシーンの表舞台へ

しばらくして、スラッシュメタル黎明期のコンピレーション『スピード・キルズ』の輸入盤を手に入れたところ、スレイヤーのライヴ音源が収録されていた。これがスタジオヴァージョンに比べ、体感1.5倍速くらいで聴き違えるほどに格好良いではないか!いつしか彼らは僕の中で気になるバンドになっていった。

それを決定づけたのが、85年の『ヘル・アウェイツ』に続いて、86年にリリースされた国内盤の『ライヴ・アンデッド』を聴いた時だった。本国では84年に既発だった収録曲「ケミカル・ウォーフェア」が、”世界最速” の楽曲と称され話題になっていたことを知り、発売日を待ちわびてレコード店に走った。いざ聴いてみると世界最速とまでは感じなかったが、デビュー作よりもクリアで、迫力あるプロダクションで、約6分間にわたり終始激走し続ける圧倒的な曲の格好良さに、僕は打ちのめされた。

この必殺曲で完全にスレイヤーの虜になった僕は、雨後の筍のごとく登場し始めたスラッシュメタルバンドをチェックするようになっていた。そうした中、メジャーレーベルと契約したメタリカが86年3月に『マスター・オブ・パペッツ』をリリース。全米チャート29位にランクインして、ついにブレイクを果たす。マイノリティに過ぎなかったスラッシュメタルが、シーンの表舞台へと一気に躍り出た瞬間でもあった。

スラッシュメタル史上の最高傑作「レイン・イン・ブラッド」

この流れに呼応するように、同じくメジャーディールを獲得したスレイヤーが86年10月にリリースしたのが『レイン・イン・ブラッド』だった。

アンダーグラウンドの帝王がシーンの表舞台で牙を抜かれてしまうのか。しかし、そんな心配はまったくの杞憂に終わった。彼らは日和るどころか、全編約30分弱を最速のBPMで一気に駆け抜ける、全てをソリッドに削ぎ落とした究極のアルバムを創り上げた。浮ついた時代に媚びるどころか激しさを増したこの作品は、初の全米アルバムチャート100位内(94位)にランクインし、後にスラッシュメタル史上の最高傑作として位置づけられることになる。

80年代にHM/HRがマーケットを席巻したことは、ファンにとって喜ばしい状況である一方、メインストリームに接近することで、メタル本来の激しさや反逆のスタンスが薄れてゆくことに、物足りなさを覚える生粋のメタルマニアも多かったであろう。だが、聴く者のフラストレーションの捌け口となるべきメタル本来のあり方に、最もフィットしたのがスラッシュメタルだったのだ。メタルに疾走感を求めていた10代の僕にとっても、スレイヤーはフェイヴァリットなバンドになっていった。

究極のスピードを達成した後、88年にリリースするアルバム『サウス・オブ・ヘヴン』では、スレイヤーらしさを保ちながら、真逆のヘヴィネスも披露するなど、音作りの幅を広げていく。

伝説の初来日公演、観客は一斉にヘッドバンギング!

さらに90年、スレイヤーはこれまでの集大成的な作風の『シーズンズ・イン・ジ・アビス』をリリース。そして遂に日本初上陸を果たす。僕が観た大阪公演は座席のあるホールだったので、曲が始まると観客は一斉に前列のイスにしがみつき、頭を屈めてヘッドバンギングした。

ふと顔を上げてみると誰の頭も出ておらず、ステージまで一斉に視界が開けた状態になっていたのは凄い光景だった。誰もが断末魔のごとき叫び声を上げ、初めて体験する生の轟音を全身で浴びた。あれほど興奮でアドレナリンが噴出したライヴを、僕はあの日以来体験したことがない。

80sのHM/HRバンドの多くが失速していっても、スレイヤーはグランジの波すら呑み込まん勢いで90年代、そして新世紀にかけてもブレずに自らのスタイルを貫き、メタルシーンの最重要バンドのひとつとして君臨し続けた。

スラッシュメタルの絶対王者、後世に与える多大なる影響

2013年、ジェフの死という悲劇がスレイヤーに襲い掛かる。しかし、トム、ケリーらオリジナルメンバーは活動を続け、2019年にリリースしたラストアルバム『リペントネス』は全米4位まで昇りつめ、自己最高の結果に輝いた。

約40年間、メタリカのように時代に合わせて柔軟に音楽性を変えることなく、一貫して過激なスラッシュメタルを貫き通し続けたスレイヤー。引退の本当の理由は本人達のみが知るものだが、トムやケリーの年齢を考えると少なくとも、あの轟音をステージで奏でてツアーし続けるには、心身共に限界であろうとは容易に想像できることだ。

80sメタルの異端児は時代に迎合することなく、その轟音の威力で常識を覆し、シーンの帝王へと昇り詰めていった。スレイヤーはスラッシュメタルの絶対王者として、これからも後世に多大な影響を与え続けることだろう。

カタリベ: 中塚一晶

© Reminder LLC