元大洋・屋鋪要氏が語る“スーパーカートリオ” 1イニング3盗塁死も「常にノーサイン」

「スーパーカートリオ」の一人として大洋で活躍した屋鋪要氏【写真:本人提供】

先輩を怒鳴り上げた、破天荒な高校時代

Full-Countでは、DeNAベイスターズの前身の大洋ホエールズ(1950~52年、55~77年)と横浜大洋ホエールズ(78~92年)で活躍した、個性豊かな名選手を取り上げている。今回は、球界きっての“いだてん”として鳴らし盗塁王を3度獲得、現在は野球指導者の他、鉄道写真家、鉄道模型のレイアウト製作者としても活躍中の屋鋪要さんの登場だ。

俊足で守備範囲の広い外野手としてゴールデングラブ賞に5度輝いた屋鋪さんだが、中学までのポジションは意外にも捕手。しかも兵庫・三田学園高1年の時、外野へ転向したきっかけが実にユニークだ。

「当時の僕は短気で、先輩の投手がつまらん球を投げてくると、『しっかり投げてこいよ!』と怒鳴ったりしていました。監督から『お前の性格では、捕手は無理。外野をやれ』と言われたんです」

現在ならいざ知らず、屋鋪さんが高校時代を過ごした1970年代中盤、部活動における先輩・後輩の上下関係は絶対だった。当時このキャラクターは、極めて異色だったはず。試合中、球審の判定が不満でヘルメットを地面に叩きつけたこともあったとか。「我ながら破天荒でした」と笑う。

3年の夏は4番・投手としてチームを牽引し、兵庫県大会ベスト16まで進出したが、肘を痛めて甲子園には届かなかった。大洋の高松延次スカウトに見いだされ、77年ドラフト6位で外野手として入団した。「高松スカウトは『パンチ力にほれた』と言ってくれましたし、僕も飛ばすことに自信があった。当時は、足が売り物というわけではありませんでした」と振り返る。

大恩人・関根潤三さんのお葬式には「何を置いても行きたかった…」

プロ1年目の自主トレの段階で早くも、俊足が首脳陣の目に止まり、いきなり1軍キャンプに抜擢。この年、1軍公式戦にも9試合出場している。しかし、もともと右打ちで、2年目の夏から取り組んだスイッチヒッター転向には苦労した。

「当時、スイッチヒッターになる人がたいていそうであったように、僕もコーチから『ボールを叩きつけて、内野安打を狙え』と教えられました。しかし今思えば、前から来るボールに対し、上から下へバットを出していたら、当たる確率は上がるわけがありません」

転機となったのは、1982年の関根潤三監督の就任だった。「それまでと違い、バッティングの基本通り、きれいなレベルスイングを教えていただきました。遠征先の宿舎で監督室に呼ばれ、素振りを見てもらったこともあります」。左打ちもメキメキ上達し、84年には規定打席数を満たした上で打率.305をマークした。

その関根氏が今年4月9日、老衰のため死去した。「僕は関根さんに育ててもらいました。大恩人です。お葬式には何を置いても行きたかったのに、コロナ禍でかなわなかった。残念でなりません」と落胆を隠せない。

屋鋪さんのプロ野球人生の絶頂期は、1985年に就任した近藤貞雄監督によって、高木豊、加藤博一とともに「スーパーカートリオ」と名付けられた頃だろう。同年に打率.304、自己最多の58盗塁をマーク。翌86年からは3年連続盗塁王を獲得した。

「当時は何とも思っていませんでしたが、引退後、出会った人たちから『あのスーパーカートリオの屋鋪さんですか!』と言っていだたくことが増えて、ありがたいと感じています。よくぞ名付けてくれました」

1980年代に驚異のベストタイム11秒1

スーパーカートリオが成功した要因を、こう分析している。

「ある試合で、1番高木が出塁して盗塁に失敗し1アウト。加藤が出塁して盗塁失敗で2アウト。屋鋪も出塁して盗塁失敗で3アウト、ということがありました。さすがに近藤監督もその時ばかりは『壊れた耕運機か!』と怒っていましたが、何度失敗しようが、常にノーサインで自由に走らせてくれました。おかげでアウトになることを恐れなくなりました。『足にスランプはない』と言う野球評論家がいますが、そんなことはありません。びびったらスタートを切れませんから」

また、当時シーズンオフに行われていたプロ野球選手の運動会で、100メートル走では敵なしだった。「ベストタイム? 大したことはないですよ。11秒1くらいじゃないかな」と事もなげに言うが、当時は日本記録も10秒台中盤で、陸上用のスパイクを履かずにこの記録はやはりすごい。

次回は巨人移籍後や近況について聞く。(宮脇広久 / Hirohisa Miyawaki)

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