6月1日は「モレリアの日」!ミズノで語り継がれる開発秘話と、カレカとの奇跡的出会い

今日から6月。

本日、6月1日は「電波の日」「気象記念日」「写真の日」「チーズの日」などなど様々な記念日となっている。

実はサッカー関連でも、6月1日は「モレリア(MORELIA)の日」となっている、らしい。

モレリア。多くのフットボーラーに愛されているモレリア。ミズノが世界に誇る、あのモレリア。

モレリアの日!

……正直、初めて知りました。

さすが名スパイク、記念日まであるなんて。

でも、なぜ6月1日???

気になって仕方がないので、スポーツメーカーのミズノを直撃してみた。

なにせ、今年はモレリア35周年。包み隠さずいろいろ教えてくれるに違いない。

返答していただいたのは、ミズノ株式会社の安井敏恭氏。「初代モレリア」の開発を担当したスゴイ人だ。

一人の“戯言”から始まった「モレリア」

――「モレリアの日」について伺いたいのですが、その前に、新型コロナウイルスでどんな影響が出ていますか?

売上、勤務体制など様々な影響はありますが、今できること、今だからできることを考え、前向きに業務に励んでいます。

――ありがとうございます。ではさっそく、6月1日がなぜ「モレリアの日」なのでしょうか?

1986年6月1日、当時ブラジル代表だったカレカ選手が「モレリア」を着用し、ミズノのサッカーシューズが“初めて”世界大会のピッチに立ちました。

世界に向けてスタートを切ったこの6月1日を、ミズノでは「モレリアの日」と制定しています。

――なるほど、その日が6月1日だったのですね!そもそも当時、ミズノがサッカーシューズを作ろうと思った理由は何だったのですか?

私(安井氏)の母校は古くからミズノとの繋がりがあり諸先輩で副社長になられた方がおり、その縁で1980年の3月にミズノへ入社することとなりました。

しかし、ミズノは当時サッカーではまったく認められていないブランドで、ミズノと言えば誰もが野球、ゴルフというイメージを持たれていたと思います。私もミズノのスパイクなど一度も使用したことはありませんでした。

だから、当初私はミズノへの就職をためらっていたのですが、担任の先生から「お前がミズノに行ってそれを変えたら面白いぞ」と言われ、若かった自分はそれをうのみにして試験を受けることにしました(笑)。

高校の卒業論文でミズノのサッカーシューズについての比較改善レポートを作成。その論文が功を奏したのか、シューズの企画部門へ配属されることとなりました。

高校卒の若造がすぐに何かをやれるような環境では勿論、無かったのですが、時間をかけてシューズ、モノ作りのいろはを勉強させていただいた後、「モレリア」の開発は1983年頃から始めていました。

そして、せっかく新しいモノを作るのであれば、世界最高の舞台でも使ってもらえるような品質のスパイクを作ろうという目標を持って取り組んでいました。

できれば、ブラジル代表の選手に使ってもらえるような仕様・品質のモノを作りたいと。そういった夢を持って開発をはじめました。当時は一人の社員の戯言のようなものでしたね。

しかし、人の情熱(思い)は、時として壮大な力を発揮し、人を繋ぎ合わせてくれます。

実は私がミズノに入社したころ、地球の反対側のブラジルで日本人としてプロのサッカー選手を夢見る一人の侍がいました。

彼の名は、水島武蔵です(キャプテン翼のモデルと言われています)。

水島選手は10歳にして単身ブラジルへ渡り、サンパウロでプロへの階段を上り始めていました。そのころ、ある会社を通じてミズノと彼との間で繋がりができていました。まだ、ミズノが“Mライン”のシューズを販売していた時代です。

彼がブラジルへ渡り、初めて日本に戻るということを聞きつけて、彼の東京の家を訪問。ブラジルの選手の使うスパイクや、どのような機能を求めているのか、約半日をかけて彼とシューズについて語り合える時間をいただきました。

そこから、今の「モレリア」のコンセプトが生まれたのです。

――「モレリア」の開発で注意した点や、どんな苦労がありましたか?

サッカーで選手が自ら選んで使えるアイテムはシューズしかありません。

戦場へ向かうための武器は唯一シューズになります。したがって、シューズに求められる機能は選手のために無ければなりません。それらのニーズをしっかりと理解し、選手のパフォーマンスをより引き出すためのパートナーとなる必要があります。

「選手のための選手が使うシューズ」ということです。選手にとって何が重要であるか、機能第一優先で開発する必要があるのです。そこにとことん拘っていました。

80年代の初頭はまだまだIT化が世の中で進んでいるとは言えず、FAXがようやく出回り、パーソナルコンピュータ(PC)は限られた人しか使えない時代でした。

なので、情報を集めるには自らが動くしかなかった、時間がゆっくりと流れていた時代です。すべてがまだまだアナログの世界でした。ですから開発の試行錯誤もとにかく時間が掛かっていました。

当時はブラジルとのやり取りもテレックス(※テープにパンチングして穴を開けて送信するシステム)で行っていました。

カレカ本人から契約の申し出が!

――時代を感じます。そうしたなか、なぜミズノが、世界的な選手であるカレカといきなり契約することができたのですか?

「モレリア」の開発は武蔵君を通じて行っていたのですが、彼がブラジルで所属していたのがサンパウロFCだったこともあり、サンパウロFCの選手の多くも開発に間接的にかかわってくれていました。

トップチームのメンバーもプロトタイプの試作品を試し履きしてくれていて、その中にカレカもいたのです。私はその事実を1985年8月のブラジル訪問までまったく知りませんでした。

※サンパウロFC時代のカレカ。

武蔵君から、1984年の暮れ辺りから「これらの状況をブラジルでぜひ直接見るべき」と進言されていた私は、当時の専務取締役に直談判。50枚に及ぶ出張を申請するレポートを作成、ようやく現地へ向かうことができたのでした。それが私の初めての海外出張でもありました。

当時のサンパウロFCには多くの代表クラスの選手がいました。ブラジル代表が8人、ウルグアイ代表が1人。そうそうたる顔ぶれでした。

そして、私のブラジル訪問後、カレカから武蔵君を通じて“おしかり”を受けたのです。

それは思いもよらない、本人からのミズノとの契約希望だったのです。「なぜ、ブラジルまで来たのに私と契約しないのか?」というものでした。

カレカは1982年に行われたスペインワールドカップのメンバーでもあったのですが、大会直前の合宿中にケガにより最終メンバーから漏れるという不運な出来事がありました。

その後、原因不明の足痛に襲われ、長きにわたり試合は勿論、トレーニングもままならない状態が続きました。

しかしある日、アパレシーダというブラジルカトリックの総本山の教会がある街で行われた地元チームとのプレシーズンマッチで、武蔵君から入手したミズノのスパイクを初めて履き、後半から出場して見事2ゴールと活躍したのです。

試合後、彼曰く、足の痛みをまったく感じず、2ゴールを挙げることができた、神から授かったシューズであると武蔵君に語ったそうです。

そのような経緯もあり、カレカはミズノとの契約を望んでいたのです。

人の繋がりは本当に大切であることを実感しました。

※こちらがカレカが初めて履いたミズノのスパイク。

安井氏「1986年大会のブラジル代表合宿所で、使用しているスパイクについての意見交換、新しいスパイクを納品した時の写真です。合宿所へ入る際、ゲートで止められましたが、カレカへの納品があると警備員へ説明。日本人であったことで、遠くからわざわざ来ていると思ったのか、アポなしで合宿所へ入ることに成功しました。ゲートにはファンが何千人もいて、当日は報道陣もシャットアウトしていたのでなぜ、日本人が入れるのかとヤジが飛んでいたのを覚えています。ほぼ恨まれていました(笑)」

安井氏「1988年、ナポリが来日した際に滞在ホテルにて、新しく開発中のスパイクについて意見交換を実施。カレカは日本代表との試合でも大活躍しました」

――そんなことがあったのですね。当時から現在に至るまで、選手たちからはどんな評価がありましたか?

1985年当時、日本ではプロリーグも無い時代、JSL(日本サッカーリーグ)でミズノを使用する選手など一人もいませんでした。

高校サッカー選手権でも数名しかいなかった。そんな状況下ではありましたが、ブラジル、サンパウロではカレカをはじめ他の代表クラスの選手も、契約もないのにミズノスパイクを使用してくれていました。

それは何より、軽量、柔軟、素足感覚という彼らのマインドをくすぐるようなアイテムであったからです。アッパーのカンガルーの品質に多くの選手が驚いていたとサンパウロFCのホペイロの方から直接聞くこともできました。

そして、1986年にメキシコ大会でカレカが5ゴールと大活躍。翌1987年8月にはカレカのナポリ移籍が決まり、我々も欧州でのサッカーシューズの販売を本格化させたのです。

※記念すべき「初代モレリア」のラスト(靴型)。

1990年のイタリア大会では、ブラジル代表の実に15名の選手がミズノの「モレリア」を履いていました。その影響で、90年代のブラジル国内では多くのトップチームでミズノの「モレリア」が使用されていました。

当時おそらくブラジル全国選手権でのトップシェアであったと思います。今でもブラジルでのミズノブランドは日本以上に認知されたブランドとして認められています。

欧州においても、ナポリでのカレカの活躍もあり、我々はその後、イングランド代表のキャプテンやイタリア代表の選手とも契約を結び、英国とイタリアでは特に販路を広げることに成功しました。

日本国内においては、1992年と1993年に東京で開催されたインターコンチネンタルカップ(通称トヨタカップ)を連覇したサンパウロFCの多くの選手が「モレリア」を履いていたことから、「モレリア」のブランド認知が急激に高まり、1993年のJリーグ開始と共に日本でのミズノブランドの確固たる地位を得ることとなりました。

ちなみに、昨年末から今年にかけて開催された高校サッカー選手権でのモデルごとのトップシェアも「モレリア」シリーズのアイテムでした。

――「モレリア」という名前になった理由は?

MORELIAのシューズ名は、1986年メキシコ大会で活躍してほしいという想いをこめて、メキシコの都市「モレリア」から名づけました。

――ズバリ、「モレリア」ってどんなスパイクですか?

とことん機能美を追求した究極のサッカースパイクだと思います。

最前線でプレーしている選手が欲しいと思えることをギュッとモレリアに詰め込んでいます。だから飾りがなく、シンプルに必要なものだけが搭載されています。

――老若男女問わず、モレリア好きのプレーヤーたちに向けてメッセージをお願いします!

そうですね。カレカから先日いただいたメッセージをここでは紹介したいと思います。

『21年間の選手時代はブラジル代表、ナポリ、日本でプレーし、素晴らしい成功を収めることができました。私、アントニオ・カレカを応援して下さった全てのファンの皆様に心より御礼申し上げます。そして、いつも私と共にあった偉大なブランドであるミズノ、常に進化を続ける稀有なシューズであるモレリアのファンの皆様には履き続けることを強くおすすめします。モレリアでプレーすることで幸せになり、勝者になれると確信しています』

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サッカーのトップシーンで輝きを放ってきた、日本が世界に誇るスパイク、モレリア。

35周年を迎えた2020年も、その進化は止まらない。

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