6月3日 雲仙・普賢岳大火砕流29年 災害の記憶 後世に

かつての自宅周辺を見詰める堀さん=島原市札の元町

 消防団員ら43人が犠牲となった1991年6月3日の雲仙・普賢岳大火砕流から、3日で29年を迎えた。長崎県島原市有明町大三東の設計事務所代表、堀一也さん(74)は約5年半に及んだ噴火災害で、同市札の元町の自宅が火砕流と土石流で跡形もなくなった。当時を振り返り、「災害はいつ起きてもおかしくない。経験者にしか分からない記憶を、後世に伝えないといけない」と訴える。
 当時45歳。甚大な被害を受けた同市安中地区に家を建てて約6年。眼前には有明海、背後には普賢岳の山頂も見える風光明媚(めいび)な立地を気に入っていた。「まさかあんなことになるなんて。想像もしなかった」
 5月15日に初めて土石流が発生して以降、同地区では避難勧告が幾度も発令され、水無川を流れる土石流の音に眠れない日が続いた。その後、火砕流も発生。あの日午後4時すぎ、着の身着のまま身を寄せていた避難先の市立第五小体育館。「ドーン」という音が聞こえ、誰かが叫んだ。「大きいのが来た」
 それまでにない規模の火砕流が流れ下り、長い避難生活が決定付けられた瞬間だった。一部被害が出たものの、大火砕流では難を逃れた自宅は、その後の火砕流と土石流で完全に流失。借金だけが残った。
 7年間にわたり、体育館や公民館、仮設住宅など5カ所を転々とした。半年を過ごした避難所は、硬い床の上での雑魚寝。「梅雨はトイレや洗濯物の臭いがひどく、貧困国のような状況だった」と振り返る。
 その間、流焼失家屋被災者の会の会長として、被災者の生活再建や国の砂防施設建設計画に伴う土地や家屋の買い上げで行政側との交渉に尽力。「資料がないと信用してくれない。被災者の生活の足しになれば」
 そんな思いから、建築士としての経験を生かし、家を無くした被災者から聞き取りを進め、40軒以上の家屋の間取り図を完成。消失した家屋の存在を証明する資料作りに奔走した。
 噴火災害を機に、住宅再建時の助成金交付など被災者への行政の支援が拡充。「こうした活動が実を結んだのではないか」と言う。被災した水無川沿いの家や畑は砂防施設へと変貌。そんな風景を前に、「今は平和だが、当時は“焼け野原”だった。災害は一度あった所でまた起こる」とかつての自宅周辺を見詰めた。

堀さんが作製した被災住宅の間取り図

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