安否確認、救助要請… 元市職員が振り返るあの日 雲仙・普賢岳大火砕流29年 6.3「災害伝える機会に」

「6月3日は災害を伝えなければと考え直す機会」と話す杉本さん。背後に見えるのは平成新山=島原市大下町、安中公民館

 「息子がいない。来ていないか」「足が不自由な高齢者がいる。助けてくれ」-。住民からの安否確認や要請が次々舞い込んだ。近くの保育園からは「迎えに来るはずの親が来ないので預かって」と園児まで託された。1991年6月3日、雲仙・普賢岳大火砕流で甚大な被害を受けた島原市安中地区の混乱ぶりを、当時、同地区公民館に常駐していた元市職員、杉本伸一さん(70)は振り返る。
 当時41歳。同5月15日以降、水無川流域で続発する土石流と火砕流に備え、町内会関係者や市消防団幹部らと地区防災についての話し合いに連日明け暮れた。
 あの日も同公民館で午後2時すぎまで会議だった。「きょうは風向きがおかしい。注意せんば」。町内会関係者の言葉に不安を覚えた。風は珍しく、山手から吹いていた。もし火砕流が発生すれば、「ふもとの住家に届く可能性がある」と危険を感じた。
 消防団員らに知らせに行こうとしていた直後、無線機から「逃げます」の声が響いた。窓の外を見ると、いつもと違う大きくどす黒い火砕流が山を流れ下る様子が見えた。
 公民館の外は一面の火山灰ですぐに真っ暗になり、自動点灯の街灯がついた。団員はみんな知り合い、さっきまで一緒にいた。いても立ってもいられず、消防団員の詰め所だった北上木場農業研修所に向かおうと車を走らせた。しかし、巻き上がった木の枝や葉が燃えながら降ってきた。「とても行ける状態じゃない」
 公民館に引き返し、屋外放送で「避難してください」と中心街の体育館などに向かうよう住民に何度も呼び掛けた。夜の8時すぎ、公民館には消防団員が集まっていた。「今から仲間を捜しに行く」といきり立っていたので、町内会幹部と「残って地域の人を助けてくれ」と説得した。
 あれから29年。親しかった消防団員を亡くした当時の経験を振り返り、「6月3日は災害の悲しみや苦しみ、歯がゆさを伝えなければと考え直す機会」と話す。2014年から6年間、三陸ジオパーク推進協議会(岩手県宮古市)に派遣され、三陸ジオパークコーディネーターを務めた。その間も、6月3日は追悼行事のために毎年帰郷。大火砕流から29年を迎えたこの日、消防殉職者慰霊碑などで、手を合わせ団員たちを追悼した。

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