「黄巾の乱」三国志の幕開けを告げる大事件

三国志の幕開けを告げる大事件

後漢末期の184年、歴史を動かす大事件が起きた。

三国志の幕開けを告げる出来事といっても過言ではない「 黄巾の乱 」である。

※清代の書物に描かれた張角

太平道の教祖である張角を指導者とした太平道の信者が各地で起こした反乱であり、決起した信者の数は実に36万人という大規模なものだった。

三国志演義は黄巾の乱からストーリーが始まるが、正史を見ても黄巾の乱から中国の時代が動いた、正に「ターニングポイント」であり、参戦した人物も三国志の主要人物として活躍する大物ばかりという事もあって、三国志の幕開けを告げる「大事件」でもある。

今回は、三国志のオープニングである黄巾の乱に迫る。

黄巾の乱は何故起こったのか

黄巾の乱が起きた理由だが、まずは当時の時代背景から振り返る。

当時の皇帝である霊帝は、財政難に陥っていた現状から脱却すべく「売官」という政策によって官位を売りに出していた。

それによって金持ちの中では官位を手に入れて更に自身の身分を高くする者も現れたが、それは世間から見た「ごく一部」の人間であり、庶民の苦しい生活が変わる気配はなかった。

世間が民衆の中から世を変える「救世主」を求めている中で現れたのが、黄巾の乱を引き起こした張角である。

黄巾の乱の主導者として名前は知られているが、張角に関する記述は黄巾の乱を除いてほとんどなく、人生の90%以上は謎に包まれた人間である。

数少ない記述を見ると、道教の一派として太平道を設立した張角は自らを「大賢良師」と称して信者の獲得を始める。

病人に自分の罪を告白させ、符水(護符を沈めた水)を飲ませる事で病を癒すという新興宗教らしいやり方で信者を集めるが、信者の増えるスピードは張角の予想以上で、中国全土に広まっていた。

想像以上に増えた信者の数を見た張角は、180年代の政治の腐敗もあり、自身をトップにした太平道の世を作ろうと画策する。

想定外の密告から始まった黄巾の乱

赤が黄巾の乱が発生した地域(184年)wiki(c)SY

気になる信者の数だが、張角は信者の一万人を「」というグループに分けており、その「方」は36(計36万人)というかなりの人数だった。

想像以上の人数が集まったとはいえ、あくまで一般人の太平道信者が訓練されたプロの軍隊を相手に戦うのは分の悪い勝負に見えるが、信者とともに乱を起こす事を決意した張角は

「蒼天已死 黄天當立 歳在甲子 天下大吉」(蒼天すでに死す 黄天まさに立つべし 歳は甲子にありて 天下大吉ならん)

という標語を中国各地に掲げ、乱の予告をしつつ、裏では宮中の宦官とも呼応して同時に反乱を起こすよう根回しするなど着々と準備を進める。

中国各地の総勢36万人と宮中からの内応者で、一斉に蜂起するという超大規模反乱の準備を進めていた張角だが、弟子の一人である唐周が裏切って朝廷に密告したため、計画が露呈してしまう。

当初の計画では3月に反乱を起こす予定だったが、密告によって討伐対象となってしまった張角は計画を前倒しで、予定より一ヶ月早い2月に決行せざるを得なくなる。

それでも、蜂起した信者はの数は30万人以上という桁違いのレベルだった。

黄巾の乱の鎮圧

中国各地で一斉に起きた黄巾の乱は、討伐軍の準備が整わないうちに仕掛けた序盤こそ優勢に進めていたが、当初の計画とは違うスタートだった事もあり、各地の連携が取れないという不安要素があった。

その不安は的中し、討伐軍が態勢を整えた後はそのまま各個撃破されてしまう。(前述の通り、数は多くてもほとんどは一般人なので、鎮圧にやって来たプロの軍隊相手に勝負を挑む時点で無謀な話だった)

更に、乱の最中に張角が病死した(2月の時点で張角は病床の身だったとの事で、指揮は次男の張宝が採っていた)事もあって指揮官を失った黄巾軍は崩壊してしまう。(本拠地の広宗が陥落して乱が鎮圧された時点で既に張角は死亡していたが、墓を暴かれて遺体を掘り返された上に首を斬られて晒されたという)

2月に始まった黄巾の乱が完全に鎮圧されたのは10月なので決して簡単に鎮圧された訳ではないが、太平道の信者に加え宮中まで巻き込んだ大規模な国家転覆は、それだけ当時の腐敗した政治に対して不満を持っていた者が多かった証拠であり、その後も残党による反乱が頻発するようになる。

仮に計画通りに事が進んでいても国家転覆が出来た可能性は低かったが、世の情勢を利用して自身の天下を作ろうと目論んだ張角も天下を狙っていた「英傑」の一人だった。

後世に与えた影響

結果的に黄巾の乱は失敗に終わるが、各地で大規模反乱が起きたという事実は、既に朝廷に世を統べる力も人心も失っている事を意味していた。

清代の書物の黄巾の乱、劉備関羽張飛の三人

乱の鎮圧に参加した人物の中には劉備曹操、孫堅、董卓と後の世に大きな影響を与える大物がおり、皇帝の力の衰えを目の当たりにした彼らは、天下を狙おうと画策するようになる。

董卓のように討伐に失敗して評価を落とした者も中にはいたが、多くの者は黄巾の乱鎮圧の戦功によって昇進している。

特に、田舎で埋もれていた劉備は黄巾の乱をきっかけに名前が知られるようになり、最終的には蜀の皇帝までのし上がっているので、正に「人生のターニングポイント」となっている。

官渡の戦い赤壁の戦いと歴史を変えた戦いはいくつもあるが、中国全土という広大な規模に加え、100年近くも続く混乱の時代の幕開けに繋がったという意味では、黄巾の乱は三国志で最も大きな出来事だったといっても過言ではない。

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