太宰治ゆかりの宿、割烹旅館 玉川が惜しまれながら閉館 地域と歴史を守る大きな決断。歴史ある玉川旅館の最後を取材してきました

太宰治ゆかりの宿 国の登録有形文化財の玉川旅館

 割烹旅館 玉川(以下、玉川旅館)は、西暦1921年に料亭として営業を開始。1949年からは旅館業も加え、宿泊客はもちろん、宴会などでも多く利用されており、間もなく創業100周年を迎えようとしていました。

そのため、玉川旅館が閉館するという衝撃は、地域情報サイトを運営する弊社中の話題になり、一時騒然となりました。なぜ閉館という決断に至ったのか、取材にいってきました。

「お客様や地域の支えがあったから」

今まで女将として接客を続けてこられたのは、「お客様や地域の支えがあったから」。閉館を決めたときは断腸の想いながらも、「ホッ」としたとも。100周年を迎えるという責任が、女将にとってどれだけのプレッシャーだったのだろうかと、言葉の一つひとつに重みを感じます。

文豪「太宰治」が滞在した場所としても名が知られている玉川旅館、なかでも有名なのが「桔梗の間」。この色香漂う空間が太宰好みだったそう。「同じ部屋に泊まりたい」と日本国内外からも多くのファンが訪れました。今回の閉館と取り壊しで、この桔梗の間も同様に姿を消します。船橋市民のみならず、文豪ファンとしても寂しい出来事であることは間違いありません。

 閉館・取り壊しを決意した理由とは。

この閉館は決して突然思い立ったことではありません。船橋の景色が年々変わっていく中で、周りの建造物の変化により“ビル風”のような強い風を体感することも増え、今までに感じたことのない恐怖感を覚えたのだとか。昨年の台風15号で瓦屋根が壊れた際に、“その恐怖”がより強まることに。「万が一、周辺の方やお客様に危険が生じたら…」。数億円にものぼる修繕費を考え、継続は不可能という結論にいたりました。由緒あるこの玉川旅館の閉館・解体は、地域と歴史を守るためのおおきな決断だったのです。

検討されていた閉館セレモニーは、新型コロナウイルス感染症の影響で実現には至りませんでした。しかし女将は、「利用してくださった方々、地域の方々に感謝の気持ちを伝えたい」と、手紙を送る予定と言います。

女将の決断や想いについて、詳しくは記事全文をぜひご覧ください。

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