「湘南の海」はどうやら、新型コロナウイルス問題において、ある種の象徴的な意味を持ってしまったような気がする。「緊急事態に国や地方自治体の私権制限のあり方はどうあるべきか」について深刻に考えさせられることが、この海を舞台に立て続けに起きたからだ。都内での新規感染者数が再び増加傾向を見せ、緊急事態宣言の再発令の可能性もささやかれるなか、改めてこの問題を振り返りたい。(ジャーナリスト=尾中香尚里)
▽先行した自治体の外出自粛要請
最初は、首都圏での感染拡大が目立ち始めた3月以降、地方自治体が独自に発出した「不要不急の外出自粛要請」だ。
湘南の海を抱える神奈川県では、3月26日に黒岩祐治知事が、週末の不要不急の外出、イベントの延期や中止を要請した。先に東京都の小池百合子知事が同様の要請をしたのに合わせた形だった。
この時点で政府は、新型インフルエンザ等対策特別措置法を新型コロナウイルス対策にも使えるように法律を改正していたが、この法律に基づく緊急事態宣言の発令にはためらいを見せ、その間にも感染拡大は進んだ。しびれを切らした首都圏の自治体が、独自の外出自粛要請を次々に出し始めた。
感染拡大を抑えるために、行政が外出自粛要請などの「緊急避難的な私権制限」を行うことを、全て否定するつもりはない。だが、行政が法律の裏付けのない独自の私権制限を安易に行えば、その結果住民が不利益を被った時、行政がそれを補償する法的根拠がないことになる。こういうことを「当たり前」にしてはならない。この考えは今も変わらない。
▽緊急事態宣言発令とメディアの監視
次は4月7日、政府が緊急事態宣言を発令し、神奈川を含む7都府県に外出自粛を要請したことだ。外出自粛要請に、初めて法的根拠が伴うことになった。
感染拡大を防ぐための非常措置とはいえ、法律に基づき市民の移動の自由を制限する以上は、政府は「感染症対策として」市民に強いた痛みへの補償を行うべきだし、同時に医療崩壊を防ぎ国民を守るための責任を果たすべきだろう。
緊急事態宣言の発令中に私たちが監視すべきだったのは「政府は本当に国民のために働いているかどうか」だ。PCR検査の実施件数拡大や病床数の増強など、特措法の「強権」を国民のために適切に使っているかどうかだったはずだ。
ところがいつの間にか、緊急事態宣言は「国民への外出自粛要請」とほぼ同義語になってしまった。テレビは連日のように繁華街や観光地にカメラを向け、人出の状況に一喜一憂した。監視する対象は国家ではなく、一般の国民だった。
▽喧伝された「法の不備」
象徴の一つとなったのが湘南の海だ。海辺を走る車のナンバーがチェックされ、地元以外からの車の存在に焦点が当たった。それがSNSを通じて拡散された。メディアも含む「自粛警察」の目が、この海に注がれることになった。
確かに地元住民にとって、外部からの大勢の人の流入は大きな不安要素だったはずだ。だが、収束後には再び観光で生きていく人も少なくないこの地域にさまざまな形で過剰な「分断の種」をまかれた感は否めず、苦い思いが残った。
何より残念だったのは「緊急事態宣言下にもかかわらず外出する人々」の存在が強調されたことで、特措法に要請を守らない人への罰則規定がないことが、あたかも「法の不備」であるかのように喧伝(けんでん)されてしまったことだ。安倍晋三首相は憲法記念日の5月3日、憲法改正を推進する民間団体のオンライン集会に寄せたビデオメッセージで「憲法改正による緊急事態条項の制定」に言及した。
▽強権を国民のために使うとは
安倍政権が本来行うべきだったのは、現行法の規定を十分に活用し、国民が安心して自発的に外出を自粛できる環境を整えることだった。
すでに忘れられているようだが、緊急事態宣言が初めて発令された時に「政府が行える私権制限」として注目されたのは、外出自粛要請だけではない。驚きを持って伝えられていたのは、仮設病院を建設するために民間の土地や建物を収用する権限だった。
筆者が最も期待していたのは、実はこれだった。大都市部では多くの人が、疑わしい症状があってもPCR検査にたどり着けず、家庭内感染の危険性も指摘されていた。政府は少しでも多くの人に検査を施した上で、陽性者が一時待機できる仮設病院や待機施設を多く確保するため、民間の宿泊施設などに(もちろん十分な補償を約束した上で)協力を要請すべきではなかったか。「強権を国民のために使う」とは、そういうことではないのだろうか。
ところが、安倍政権はそういう方向で緊急事態宣言を「使い倒す」ことをせず、ただ国民の外出自粛ばかりを強調した。そして、それすら十分にできないと分かると、今度は自らの非力を法の不備にすり替え、国民の私権制限の強化を目指す方向に走ったわけだ。
そんな政権のもくろみに、湘南の海はまんまと利用された。
▽宣言解除後の自粛要請の意味
最後に、緊急事態宣言が解除された現在の状況に触れたい。
緊急事態宣言の解除は、当初の5月31日から1週間前倒しされた。安倍首相が明らかに解除に前のめりだったことは、ここで繰り返すまでもない。だが、政府や首都圏の地方自治体は、宣言解除後も一部の事業者の営業に一定の条件をつけた。
感染拡大を押さえ込むには、なお一定の営業自粛が必要だと、行政自らが認めているわけだ。それでも解除を急いだのは、緊急事態宣言のもとで法的に営業自粛を要請すれば、行政が法的責任を問われる可能性があるからであり、解除は補償の責任から逃れるための措置なのではないか―。
そしてそのことは、またも湘南の海で裏付けられることになった。
神奈川県は県内の海水浴場設置者団体に対し、この夏の海水浴場開設に関し「海の家は完全予約制に」「砂浜に一定間隔で目印を設置」などを求める指針案を提示。そのハードルの高さに、全国でトップクラスの人出を誇る片瀬西浜・鵠沼(くげぬま)、片瀬東浜の両海水浴場(いずれも藤沢市)をはじめ、県内のほとんどの海水浴場の運営団体が、海水浴場開設の断念に追い込まれた。
▽仕事を失うのは事業者の自己責任か
海水浴場にかかわる事業者らはひと夏、すなわち1年分の仕事を失うことになった。だが、毎日新聞の報道によれば、県は事業者への補償や支援について「休業ではない」として否定的な見解を示しているという。
事業者が海水浴場の開設を断念したのは、確かにそれぞれの判断だ。だが、彼らに断念を決断させたのは、指針を出した県であることは疑いようがない。そして、事業者が被る甚大な経済被害に対し、県は補償の責任を免れようとしている。
納得がいかない。緊急事態宣言が解除された後も、政府や地方自治体による法的根拠を伴わない要請がいくつも残り、そして「法的根拠がない」ことを理由に行政からの補償や支援が得られなくなったら、事業者はどうなるのか。
東京都も、一方で休業要請の緩和を進めつつ、一方で「東京アラート」なるものを発出し(もちろん法的根拠はない)、都民は何を求めているのか分からない状況になっている。緊急事態宣言をめぐる安倍政権の「雑な私権制限」が、そのまま自治体にも伝播してしまったかのようだ。筆者はこういう私権制限のかけ方、権力行使の仕方を、どうしても認める気にはなれない。
そんな折に、さらに頭が痛くなる報道が出てきた。政府は新型コロナウイルス感染の「第2波」の恐れがあると判断した場合、緊急事態宣言の再発令に先立ち、都道府県知事に外出自粛要請を出すよう促す(日本経済新聞)というのだ。
「先立って」とはどういうことか。政府はそこまで、自らの責任を負うことなく国民の私権を制限したいのか。
新型コロナウイルスという未曽有の危機のなかで、私たちは国や地方自治体の政治権力の使い方に対し、あまりにも寛容になり過ぎていたのではないか。本来もっとシビアに点検すべき「国民の私権制限」について「緊急事態だから仕方ない」と、甘く見過ごしてきたのではないか。
緊急事態宣言の解除によって、こうした話は「終わったこと」とすら思われているのかもしれないが、それでもしつこく強調しておきたい。政治は一度こういう自由な権力行使の味を覚えると、緊急事態が去った後も、同様の振る舞いを続けるだろうということを。