コロナ禍で出てきた空想の特急たち

空想特急のあれこれ

 【汐留鉄道倶楽部】新型コロナウイルスのせいで、平日はひたすら自宅と職場を地下鉄で往復する毎日が続く。休日だって近場の鉄道小旅行にも出掛けられない。

 5月の地下鉄は乗客が減っていた。1車両に数人しか乗っていない日が続いた。最後尾の車掌室前に立って8両編成の先頭車の運転席までが見通せた。地上の大通りに沿って車両がくねくね曲がり、河川をくぐる時はしなるかのように走る過程が手に取るように分かった。カーブが終わると先頭から順に態勢を整え、「地図の通りだわ」と今更ながら新鮮に感じた。

 緊急事態宣言解除後は乗客が増えてきた。何となく座席は1人空けの“暗黙のルール”は消え、最近はすぐ隣に座る人も多くなった。

 新聞に掲載された東京都の「新しい日常」と題した広告には鉄道乗車について「混んでいる時間帯を避けよう」「徒歩や自転車を利用しよう」とあったが、なかなかそうはいかないだろう。在宅勤務だって皆が簡単に定着するわけではない。乗客や鉄道会社が知恵を絞って本当の「新しい日常」を作るしかないだろうが、コロナ禍でもダイヤ通りに走る電車を前にその姿は容易に想像できない。

 さて、“蟄居”を強いられた休日。できないと分かっている「断捨離」に挑もうとクローゼットの段ボールの封を開けた。この作業のたび“懐かしグッズ”に出合うのだが、この日はかつて“空想”で作成した「国鉄の新愛称名特急」一覧が出てきた。小学5、6年くらいに作ったものだろう。オリジナル愛称名と走行区間、定期・臨時、編成数を書いたリストだ。

 愛称名は当時の自分としては熟慮した結果だと思う。たとえば、「ジュピター」(大阪―直江津)、「はつしも」(上野―山形)、「北風」(函館―旭川)、「上州」(上野―長岡)、「吹雪」(上野―直江津)、「メトロポリス」(岡山―博多)、「ゆうなみ」(広島―八代)、「赤石」(新宿―塩尻)、「はりのき」(名古屋―富山)など。その数約50。

 愛称と土地が一致しないのもあったが、結構まじめに考えた記憶がある。知ってか知らぬか「夕月」「伊吹」「那智」など現存した愛称もあった。空想好きな少年だった。学業には少しも役立たなかったけれど。

(上)網の目のような架空の路線と駅、(下)タンク車など3両のHO貨車

 そして次に画用紙いっぱいに書かれた地図が出てきた。網の目のような鉄道路線図だ。自分で路線を張りめぐらせ100以上の駅名を配する。もちろんすべてが架空の路線で駅名も自分で考えた。

 「昌吹」駅を大ターミナルとした中央環状線を中心にいくつもの環状線と放射線が複雑に交錯し、特急や急行、快速停車駅を区別させる。こんな架空地図を作って空想世界に浸っていた。やはり勉強の参考にはならなかったが。

 さらに懐かしグッズは続く。とっくに手を離れていたはずの鉄道模型HOゲージの貨車が3両あった。タンク車「タキ」、石炭車「セ」、それに「ウ」と側面に書かれた豚運搬車。子どものころは貨車だけで30両くらい持っていたと思う。今はレールがないから車輪を転がすことさえできないが、半世紀も前のHO模型に再会できたのは嬉しかった。「タキ」に張られた「SHELL」のシールがリアルだ。

 まともに買ったら高価だから、跨線橋やベンチ、ランプ付きの駅舎や薄青色に塗ったパンタグラフ付きの103系国電などをせっせと手作りしたころを思い出す。

 そうだ、銀座の鉄道模型店あたりで貨車をあと20両ほど加えて自室にレールを敷き、ポイントやトンネル、信号機、ホームも設置して「EH10」あたりに牽引させてみよう…。

 なんてことは夢の話。空想癖だけは体に染みついて消えずにいる。

 ☆共同通信 植村昌則

 ※汐留鉄道倶楽部は、鉄道好きの共同通信社の記者、カメラマンが書いたコラム、エッセーです。

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