嫉妬深い?!毅然としてかっこいい?!様々な印象を残す皇后とは?奈良にある「ゆかりの地」もご紹介!

 毎週月~金曜日ゆうがた5時30分から放送している奈良テレビの「ゆうドキッ!」。今回は様々な角度から奈良を知るエキスパート・奈良まほろばソムリエの松永さんに「奈良の雑学」を教えていただきました。 (6月15日放送)

 今回のテーマは「磐之媛は本当に嫉妬深いのか!あなたは共感できる?磐之媛の女心」です!嫉妬に女心に…気になる単語が並んでいますが、これはどういったお話なのでしょうか。

まず、この物語に出てくる女性「磐之媛(いわのひめ)」についてご紹介します。磐之媛は古墳時代に生きた皇妃なのですが「嫉妬深い女性」として有名です。しかし、調べる中で「嫉妬深い」とは思えない、共感できるところもあるとわかりました。「磐之媛は本当に嫉妬深いのか?」その人柄を紐解きながら皆さんも一緒に考えてみてください。

磐之媛を語る上で外せない人物が、夫である仁徳天皇です。彼は、人々が困っていたら租税を3年間免除するような、とても優しい人物です。そして、その優しさは世の中すべての女性に対しても同じであったため、女性からとても人気がありました。一方、磐之媛は現在の葛城市のあたりで絶大な権力を持っていた豪族葛城氏の娘で、皇族以外で初めて皇后になった女性と言われています。

さて、磐之媛はどうして嫉妬深いと言われているのでしょうか?

磐之媛が嫉妬深いと言われるようになった大きな出来事があります。ある時、磐之媛が新嘗祭(にいなめさい)で使う葉、御綱柏(みつながしわ)を熊野に採りに行っているすきに、仁徳天皇が八田皇女(やたのひめみこ)を宮中にいれました。

それを知った磐之媛は御綱柏を海に投げ捨て、宮中には帰らず堀江を遡り山城(今でいう京都)に向かいます。

これほどに磐之媛が激怒したのには理由があります。それは、女性を宮中に入れるのが今回が初めてではなかったのです。以前にも「八田皇女を妃の1人にしたい」と仁徳天皇から言われていたのですが、磐之媛は決して承諾をしませんでした。

こうした話があったにも関わらず、自分の留守を狙って仁徳天皇が実行した…それが磐之媛を深く傷つけ、大胆な行動に駆り立てたのではないでしょうか。そして磐之媛は山城に向かう途中で、このような歌を残しています。

「つぎねふや 山城川を宮上り 我が上れば あをによし 奈良を過ぎ 小盾倭を過ぎ わが見が欲し国は 葛城高宮 我家のあたり」

これは、磐之媛が生まれた場所、葛城を思い詠んだ歌です。宮中には帰りたくないが、夫とお別れしたからと言って実家の葛城氏へ戻ることもできず…切なく悲しい想いが伝わりますよね。

ところで、家出をした磐之媛はどこへ向かったのでしょうか?

磐之媛は山城川を上り、筒木にいる奴理能美(ぬりのみ)という人物の家に向かいました。

奴理能美は、渡来人で蚕を飼っており、絹織物などを作っていたのではないかと言われています。おそらく昔からの知り合いで、非常に信頼していた人物だったのでないでしょうか。傷ついた時に1番に会いに行く人ですから、淡い恋心を抱いていた人だったのかもしれませんね。

その後、仁徳天皇は磐之媛に戻ってきてもらおうと、使いに手紙を届けさせましたが、会ってすらもらえませんでした。

最終的には奴理能美と使いたちが話を合わせて「磐之媛は珍しい虫(蚕のこと)を見に行っているだけ」と仁徳天皇に伝えました 。

すると、仁徳天皇は「私も蚕を見に行こう!」と家来を連れて磐之媛を迎えに行き、2人は仲直りしたといいます。しかし、仲直りはしたものの、磐之媛は宮中には戻らず、数年後に筒木で亡くなります。

磐之媛は今を生きる私達と同じように自分を表現し、大胆で行動力のある女性だったのです。物語を知ると「嫉妬深い」という印象とはまた違って「毅然としたかっこいい女性」とも感じますね!

では、磐之媛ゆかりの地をご紹介します。磐之媛が葬られたとされているのが、奈良市の平城宮跡の北にあるヒシアゲ古墳です。

仁徳天皇陵は大阪府堺市にあり、夫婦なのに離れて葬られていますが、磐之媛が眠るヒシアゲ古墳からは、彼女が帰りたがっていた葛城あたりを微かに見ることができます。少しでも故郷が見えるところに埋葬してあげようという、仁徳天皇の思いやりなのかもしれません。

周辺はサイクリングやウォーキングコースになっていて、古墳の堀には7月頃にはスイレンが咲き誇ります。

磐之媛の想いに共感しながら、お散歩や見頃のお花を楽しんでみてはいかがでしょうか?

※この記事は取材当時の情報です。

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