安倍政権は安否確認棚上げも模索していた それでも進展しない拉致問題  横田滋さんの無念

By 内田恭司

 

2014年9月、横田めぐみさんの写真の前で講演する横田滋さん、早紀江さん夫妻=新潟市

 横田滋さんが6月5日死去した。北朝鮮による拉致被害者横田めぐみさんの父として、妻の早紀江さんと被害者奪還運動に半生を費やしてきた。めぐみさんとの再会がかなわず、さぞ無念であっただろう。被害者全員の帰国を政権の最重要課題に掲げてきた安倍晋三首相は「断腸の思いでいっぱいだ」と記者団に語った。

 首相は本心だったに違いないが、胸中には悔恨とざんきの念が交錯したのではないか。政府はこの間、めぐみさんらの安否確認を事実上棚上げする形での解決策を選択肢として残しており、この方策を首相も模索してきた経緯があるからだ。しかし、拉致問題は解決することなく歳月だけが過ぎ、高齢となった被害者家族が次々と亡くなっていく。 (肩書は当時、共同通信=内田恭司)

 ▽当初方針は「全員帰国の実現」

 政府がどのような解決策を模索してきたのかを説明する前に、拉致問題の経過を振り返りたい。拉致問題が動いたのは2002年9月の小泉純一郎首相による電撃的な訪朝によってだった。小泉氏と会談した金正日朝鮮労働党総書記は13人の拉致を認めて「5人生存、8人死亡」と伝え、謝罪したのだ。翌10月、5人は帰国したが、「死亡」とされためぐみさんの姿は当然のことながら、その中にはなかった。  

2002年9月、平壌宣言の署名を終え、握手する小泉首相(左)と金正日総書記=平壌の百花園迎賓館

 日本政府は「全員が生きている」として全ての拉致被害者の帰国を実現させる方針を決定。小泉氏による04年5月の2度目の訪朝で、北朝鮮に再調査を約束させたが、結果は覆らなかった。さらに、めぐみさんの「遺骨」だとして提供した骨が、日本側のDNA鑑定で「別人のもの」(細田博之官房長官)だったと判明。日本の国内世論は北朝鮮批判で一色となり、拉致問題は完全に膠着(こうちゃく)状態に陥ることになった。

 事態が動きだすのは、米朝間に対話の機運が出てきた08年に入ってからだ。これに先立つ05年9月、6カ国協議は、北朝鮮の核放棄を進める枠組みで合意したが、06年10月に北朝鮮が初めての核実験を実施したことで、米朝間の対立が激化した。その後、北朝鮮が合意順守の姿勢を見せたことで、米国が見返りに北朝鮮に対するテロ国家指定の解除を検討。米朝関係が改善に向けて動きだすことになった。

 この流れの中で、米国の働き掛けもあり日朝対話が進展。水面下で模索されたのが、安否確認を棚上げする形での解決策だったのだ。

 ▽2008年の「再調査委員会」設置案

 筆者は当時、共同通信政治部の外務省担当で、まさに拉致問題を取材していた。その時のメモと、その後の関係者取材に基づくのだが、日朝間で非公式に模索されていたのは、北朝鮮が、安否不明の日本政府認定の拉致被害者と、拉致された疑いが拭えない特定失踪者に関する再調査委員会を設置。併せて数人の生存が確認できれば、残りは継続調査として日朝関係を前に進めるという案だった。

 安否不明の拉致被害者はめぐみさんや、追加認定された松本京子さんらを合わせると計12人。当時の日朝関係筋は「再調査は北朝鮮のメンツを守るための知恵。追加認定の被害者や特定失踪者なら北朝鮮も出しやすい。めぐみさんらの安否が引き続き不明なら、継続調査にして日朝関係を進めることもできる」と話していた。  

 さらに①帰還事業で訪朝した日本人妻の里帰りの促進②日航機「よど号」ハイジャック犯の引き渡し―も俎上(そじょう)に上がったという。これらがパッケージで実現できれば、厳しい日本の世論も軟化するのではないかとの算段だった。 

 めぐみさんらの安否確認が棚上げになり、事実上の「死亡」受け入れにつながりかねない案だったが、08年8月の中国・瀋陽における日朝局長級協議で、北朝鮮による再調査委員会の設置と、日本が北朝鮮に科す独自制裁の緩和で一致。拉致被害者を含む、6、7の日本人の安否が北朝鮮側から非公式に示されたとの情報も入ったりした。

 しかし、9月に福田康夫首相が辞任し、対北朝鮮強硬派の麻生太郎首相が後継に就くと、北朝鮮は再調査委員会の設置を見合わせると通告。以降、日朝関係はまたしても長い膠着状態に入ることになった。

 ▽日本人に関する全面的調査へ

 拉致問題が三たび動きだしたのは14年になってからだった。日本は第2次安倍政権となり、北朝鮮は金正日総書記の死去を受け、三男の金正恩氏体制となっていた。仕掛けてきたのは「北朝鮮側」(日本政府関係者)だった。横田滋さんと早紀江さん夫妻、めぐみさんの娘キム・ウンギョンさんとその娘(横田さん夫妻のひ孫にあたる)との面会を認め、同年3月にモンゴル・ウランバートルで実現させたのだ。  

2014年3月、キム・ウンギョンさんの娘を抱く横田早紀江さんと滋さん=ウランバートル

 拉致問題に関わっている関係者は、誰もが「拉致問題幕引きの布石にしようとしている」と受け取っていた。間を置かずして、北朝鮮側から日本側に水面下で、拉致被害者と特定失踪者の男性2人に関する生存情報が伝えられた。北朝鮮が拉致被害者を含めた全ての日本人に関する再調査を行う「特別調査委員会」を設置することで一致した日朝間のストックホルム合意は、それから間もない5月末のことだった。

 合意の枠組みは、08年8月の合意を土台に再調査の規模を拡大したものだった。特別調査委のトップは、北朝鮮で秘密警察の役割を担う国家安全保衛部の幹部。調査対象は①拉致被害者②特定失踪者を含む行方不明者③日本人妻と、終戦前後の混乱で北朝鮮地域に残留した日本人④北朝鮮域内で死亡した日本人の遺骨や墓地―の4分野だった。

 行方不明者は特定失踪者を合わせて、警察庁集計で800人以上、日本人妻を含む残留日本人は子孫を入れて数千人、遺骨は数万柱とみられていた。

 「日本人に関する全面的調査」という体裁が取られたものの、関係者を取材すると、ここから透けて見えてきたのは、めぐみさんらの安否確認の棚上げもありうる08年のパッケージと同じような解決の枠組みだった。

 すなわち、拉致被害者と特定失踪者で計数人の生存を「確認」し、日本人妻の帰国と遺骨の返還も実現させる。安否が分からなかった拉致被害者については継続調査とし、日本が合同調査も視野に連絡事務所を平壌に設置する。これで拉致問題は一定の進展を得たとして、日本が独自制裁を緩和、日朝平壌宣言に基づき国交正常化交渉を進める―。このようなシナリオが浮かんできたのだ。

 生存確認の人数は「少なくとも5~10人」とされ、残留日本人を含めると「20~30人になる」との期待が高まった。連絡事務所については、11年11月にサッカーW杯予選の平壌における日朝戦で、渡航するサポーターの安全対策のため、外務省職員らを派遣して現地に臨時事務所を設置したことが「予行演習になった」(元外務省幹部)のだという。

 ▽「少なくとも複数の女性被害者は生きている」

 後付けるかのように、全国紙が7月、北朝鮮が複数の拉致被害者を含む約30人の生存者リストを日本政府に提供したとの特ダネを1面トップで報じてきた。外務省首脳が同社幹部との懇談の席で漏らしたとされ、政府による照合作業で約20人が、政府が把握する情報と一致したなど、記事の内容は詳細で具体的だった。後日、この新聞社は同年の新聞協会賞候補にこの「スクープ」を推してきた。

 ある女性拉致被害者の生存情報も流れた。関係者によると、政府の拉致問題対策本部には、この女性がある貿易会社に勤務しているとの情報があった。同本部で平壌市の電話帳を入手し、この会社の電話番号が載っていたので電話したところ、日本語なまりの朝鮮語を話す女性が出た。女性の名前を日本語で呼び掛けるとプツッと電話が切れた。ストックホルム合意より1、2年前の話だったという。

 朝鮮労働党に近い貿易会社で「工作活動まがい」の仕事に従事しているという、別の拉致被害者の情報もあった。

 だが結局、この特別調査委でも拉致問題を解決へは導けず、頓挫してしまう。日本が拉致被害者の安否確認を最優先するよう要求したのにもかかわらず、北朝鮮は遺骨問題や日本人妻の調査を先行させ、見返りを得ようとしたことで、日本側が不信感を募らせたのだ。

 北朝鮮側は「おおむね1年程度」とした調査を終えて報告書をまとめたが、日本側との複数回にわたる水面下の協議で、めぐみさんを含む拉致被害者全員について「これまでと同じ」と結論付けていた。

 これに激怒したのが安倍首相だった。当時の関係者によると、首相は、政府で収集・分析してきた情報を踏まえ「少なくとも複数の女性被害者は生きているはずだ」として、報告書の受け取りを拒否し、北朝鮮への働き掛けをさらに強めるよう指示したという。

 だが、今度は北朝鮮が態度を硬化。16年2月、特別調査委の解体を宣言し、拉致問題進展の機運は、またしてもしぼむことになった。

朝鮮労働党中央軍事委員会拡大会議に出席した金正恩委員長。朝鮮中央通信が5月24日配信した

 ▽もはや安倍政権で拉致問題進展は無理

 横田滋さんは、この頃から体調を崩しがちになっていった。周囲の関係者によると、滋さんは、平壌を訪れて孫のウンギョンさんやひ孫に会いたいと話すようになったという。滋さんにとって、18年6月のトランプ米大統領と金正恩朝鮮労働党委員長による電撃的な初の米朝首脳会談は、拉致問題進展の最後のチャンスだったと言っていい。

 安倍首相も「条件を付けずに金委員長と会って、虚心坦懐(たんかい)話をしたい」と、日朝首脳会談開催を積極的に呼び掛けた。拉致問題解決を日朝関係進展の前提とする従来の方針を転換し、関係進展の先に拉致問題解決を目指す新方針も模索した。しかし、米朝協議が暗礁に乗り上げると、日朝関係もまったく動きがなくなってしまった。これが現在の状況だ。

 ここまでやっても解決できなかった拉致問題。日本政府は、当初はめぐみさんをはじめ、拉致被害者全員の奪還を掲げたが、それでは動かないとして、安否確認できない拉致被害者については継続調査とする再調査方式で突破を試みたものの、失敗した。めぐみさんらの「死」を事実上受け入れることになるリスクを冒したが、駄目だった。

 最後は米朝首脳会談を受け、政府の基本方針の転換を懸けてまで進展を目指した。関係者によると、北朝鮮がストックホルム合意前に安否情報を出してきた2人の男性の生存確認を条件に、日本側が特別調査委員会の最終報告書を受け取り、日朝首脳会談の実現につなげる案などが模索されたという。しかし、こうした案も霧散したもようだ。

 安倍首相は横田さん死去に「断腸の思いだ」と述べた後、「被害者の帰国を実現させるため、さまざまな動きを見逃すことなくチャンスを捉えて果断に行動していきたい」と決意を新たにした。「今日まで全力を尽くしてきた」とも語った。これも本当だと思う。しかし、もはや安倍首相の任期中に拉致問題の進展は果たせそうにない。

 本当のラストチャンスは、来年夏に延期された東京五輪開催を契機とした日朝接触だが、そのチャンスが訪れるかは、まったく見通せない。

横田滋さんの死去を受け、東京・富ケ谷の私邸前で記者の質問に答える安倍首相=5日夜

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