辻仁成のコンポーズセンスも光る『Dear Friend』は日本のロックシーンを築き上げたECHOESの傑作

『Dear Friend』('89)/ECHOES

先月末に緊急事態宣言が解除され、何だかよく分からなかった東京アラートも先頃終了。まだまだ予断を許さないとはいえ、一時に比べると新型コロナウィルスの騒動も少しずつ落ち着きいてきそうな気配ではある。このコロナ渦は世界的パンデミックであって、欧米での被害も相当なものであったことはみなさんもよくご存知の通りだと思うが、個人的には仏パリ在住の辻仁成が連日のように街のロックダウンの様子をテレビなどで伝えていたことも印象深い。実はECHOESのことは随分前から当コラムで取り上げたいと思っていたにもかかわらず、なかなか機会がなかったのだが、このタイミングでECHOESを紹介したいと思う。

1980年代にシーンを形成したバンド

ECHOESが日比谷野外音楽堂でのライヴをもって解散したのが1991年5月で、辻仁成(Vo&Gu)が『海峡の光』で第116回芥川賞を受賞したのが1997年。現在までのところ、彼の著作は小説だけでも50作を超えているのだから、辻仁成にロックシンガーのイメージを持たない人たちも多くなっているかもしれない。爆笑問題が所属する事務所、タイタンが彼のマネジメントを行なっているからと言って、コメディアンと思う人はいないだろうけど、タレントや文化人の枠に入れられている気がする。少なくとも平成生まれ…いや、昭和60年代以降に生まれた人にとってはそういうイメージではなかろうか。ECHOESは活動期間よりも、解散以後の時間の方が長くなってしまった。2011年に再結成し、それ以後、公に活動停止を発表していないので、バンド自体は継続しているようではあるが、辻はパリ在住であるし、何よりもバンマスであった今川勉(Dr)が今年1月に他界したことにより、1980年代と同じスタイルでの活動は望めない状況ではある。しかし、だからと言って、ECHOESは忘れられていいようなバンドではないし、邦楽ロックを語る上で軽んじてはいけない存在である。そこをまず強調しておこう。

今や大型ロックフェスは日本の夏の風物詩と言っていい。今年はコロナ渦でそのほとんどが中止、あるいは延期となってしまったが、中止や延期がニュースになったことが、それが定着した何よりの証左あろう。つくづくロックもメジャーになったものだと思う。これもまた平成生まれの人たちにはピンと来ないだろうけど、30年ほど前まで日本の音楽シーンにおいてロックは決してメジャーと断言できるようなものではなかったと思う。矢沢永吉や浜田省吾など超メジャーなソロアーティストもいたが、ロックバンドとなるとサザンオールスターズくらいのものだったのではなかっただろうか。1980年代前半にはLOUDNESSは欧米ツアーを行なっていたし、RCサクセションもすでに一定の人気を誇っていたことは間違いないけれども、リスナーの中心層はほとんどが10代、20代だったと思うし、一部好事家のものだった…とまでは言わないものの、幅広い年齢層に聴かれていたとは言い難い。THE STALINのメジャーデビュー作『STOP JAP』(1982年)はアルバムチャートで3位になったというから、当時のスキャンダラスなパフォーマンスからすると意外にも大衆に認められていたという事実もあるが、かと言って普通の女子高生たちがTHE STALINのライヴに大挙して押し寄せた…なんて話はなかったわけで、やはりアングラ感は否めなかった。

1985年頃には有頂天、ウィラード、ラフィン・ノーズの所謂“インディーズ御三家”がNHKに取り上げられて話題を呼んだが、これにしてもロックバンドがメジャーではなかったゆえのこと。“好奇の目に晒された”という言い方は語弊があるかもしれないが、当たらずとも遠からずではないのではないかと思う。ただ、この1980年代半ばから後半にかけてのバンドたちの活躍は日本のロック史、芸能史においてかなり重要ではある。“インディーズ御三家”を始めとするバンドたちがいたからこそ、自ら音源を出すというところでのハードルは下がったのだろうし、彼らがいなかったらインディーズシーンはおろか、ロックシーン自体が今日のような形にはなっていないだろう。また、1985年にアルバム『REBECCA IV ?Maybe Tomorrow?』をミリオンヒットさせたレベッカ。1986年にアルバム『JUST A HERO』、ライヴアルバム『“GIGS” JUST A HERO TOUR 1986』、アルバム『BEAT EMOTION』と3枚もアルバムを発表し、いずれも大ヒットさせたBOØWY。そして、1987年にメジャーデビューしたTHE BLUE HEART。これらのバンドがシーンをけん引し、のちの第二次バンドブーム、イカ天ブームにつながっていった。それ以後となると、1990年代のビジュアル系バンドの隆盛、俗に言う“AIR JAM世代”によるメロコアムーブメント、2000年代の青春パンクの流行と、いろいろあったが、この辺りになるとロックバンドは市井にあって当たり前というか、完全に定着したと言える。大型のロックフェスが全国各地で開催されるようになったのもこの頃だった。

サウンドも冷静と情熱の間!?

ECHOESのデビューは1985年。前述の通り、1991年5月に解散したわけで、まさに今ほど日本のロック史、芸能史においてかなり重要だと指摘した時期を駆け抜けたバンドである。それだけでもECHOESの功績は十分であったと言えるが、今回、彼らのアルバムの中で最高売上を記録した6th『Dear Friend』を聴いて、そのサウンドやスピリッツが後世に与えた影響も決して小さいものではないことがよく分かった。まずサウンド面から見ていこう。結論から先に言うと、ECHOESの音はR&R;。浜省の系譜…というとこれまた相当に語弊があるだろうが、Jackson Browne、Bruce Springsteenから連なる“ドR&R;”な印象はある。ただ、そうは言っても、泥臭くないと言ったらいいか、アツいはアツいのだが、アツアツじゃないと言ったらいいか、わりとちょうどいい塩梅なのである。別に辻の著作に『冷静と情熱のあいだ』(江國香織との共作)があるからそれをもじったわけではないが、適度に熱く、適度にクールなのだ。

例えば、M5「ZOO」辺りは、跳ねたピアノや根底に流れるオルガン、間奏で聴こえてくるブルースハープは見事にR&R;のマナーに準拠しているように思うし、アウトロでのゴスペル風のコーラスはブラックフィーリングがあって、ブルース、ソウル、R&B;──つまり、R&R;以前の音楽への敬愛も隠していない。跳ねたピアノはM8「年頃」でも聴こえるし、M10「神が作ったシナリオ」での所謂ドンタコのリズムもまたR&R;マナーを感じるところではある。だが、その一方で、オールドスクールの継承者に留まらない、文字通り“ニューウェイブ”なサウンドを随所で聴かせる。最も分かりやすいのはM2「Brother」だろうか。ここで聴かせるエレキギターはU2やUltravoxなど、米国ではなく、ヨーロッパの影響を感じさせるものだ。間奏や2番で背後に鳴っているシンセもそう。サイケな印象もあるが、これはサイケというよりもサイバーパンクという言い方がぴったりくるような雰囲気で、いずれにしても、いい意味でロック特有の匂いを消すことに成功しているように思う。M3「Dear Friend」やM7「アンカーマン」の乾いたギターもいい。特に「アンカーマン」辺りは歌詞からすると明らかにプロテストソングのテイストが強いけれども、サウンドがそれを消臭した結果、独自のレベルミュージックに昇華させている。誤解を恐れずに言えば、(当たり前と言えば当たり前なのだけど)浜省とも、尾崎とも違う、ECHOES流のR&R;を展開しているのだ。

それは──これも言うまでもなく、当然のことだが、彼らがソロアーティストではなく、バンドであるからだろう。M8「年頃」の間奏に注目してみた。これも跳ねたピアノが印象的で、乾いたギターもいい感じのナンバー。何度聴いてもこの間奏はサックスでもいい気がする。いや、それが正解だとか、収録されているアコースティックギターのソロ演奏が合わないとか言いたいのではない。ベタにやったらそうなるということ。おそらくソロアーティストであったら、8割方、サックスにするのではないかと想像する。サックスが似合うメロディー展開、コード展開だと思う。M9「駅」ではサックス(じゃないかもしれない…)を使っているので、外音に抵抗はなかっただろう。もちろん当のメンバーにとって、「年頃」の間奏をアコギにしたのは極めて自然なことで、そこに何か大きな狙いがあったわけではないかもしれない。そう言われればそこまでだが、そんなところにもECHOESらしさ、他アーティストとの差別化を感じてしまうのである。(※そもそもこのコラムは個人の感想ですので、悪しからずご了承ください)

歌詞の表現方法は流石に独特

『Dear Friend』の歌詞について記そう。辻仁成、さすがにのちの小説家。比喩表現が独特である。川村かおりに提供し、のちにセルカバーしたM5「ZOO」は、やはりその代表ではあるとは思う。

《僕達はこの街じゃ夜更かしの好きなフクロウ/本当の気持ち隠しているそうカメレオン/朝寝坊のニワトリ徹夜明けの赤目のウサギ/誰とでもうまくやれるコウモリばかりさ》《白鳥になりたいペンギンなりたくはないナマケモノ/失恋しても片足で踏ん張るフラミンゴ/遠慮しすぎのメガネザルヘビににらまれたアマガエル/ライオンやヒョウに頭下げてばかりいるハイエナ》《見てごらんよく似ているだろう誰かさんと/ほらごらん吠えてばかりいる素直な君を》(M5「ZOO」)。

シニカルでユニークな動物の擬人化も見事ではあるが、それだけではなくて、こちら側が一方的に見ているのではなく、あちら側からも見られているという視点の主客逆転が根底にあるのも大きなポイントであろう。この辺は“のちに映画監督になるだけあるなぁ”と思わせるところでもある。比喩表現の独特さで言えば、M9「駅」もなかなか面白い。凡百の作詞家なら駅での出会いや別れといった、そこでのシチュエーションを描きそうなところ、辻は駅を女性(パートナー)に例えている。(※以下は歌詞カードが入手できなかったため、ヒアリングで書き起こしたものです。実際の歌詞とは異なっている可能性がありますことを予めご了承願います)。

《いつも幸せのひとつ手前の駅で降りてしまうのは何故だろう/いつも2人はさよならの終着駅まで乗ってしまうのは何故だろう/STATION IN MY HEART いくつもの駅を通り過ぎた/STATION IN MY HEART 乗り換えるだけの名もない駅を》《愛に急いで行先の分からない電車に飛び乗ってしまうのは何故だろう/だからいつでも降りたい駅を横目に通過する急行の中にいる僕/STATION IN MY HEART 急行は君の駅を飛ばす/STATION IN MY HEART 各駅停車の小さな駅を》《STATION IN MY HEART 手を振るだけの君が悲しい/STATION IN MY HEART 見送るだけの僕が悲しい》(M9「駅」)。

今見ると、若干態度に問題があるような気もしないでもないが、かといってそれがその独特の表現を貶めるものでもなかろう。

最後に──1985年から1991年にかけて活動したECHOESのスピリッツは後世に影響を与えた…と書いたが、その証拠(?)とも言うべきものをM12「ビーズの指環」に見つけた。この歌詞にこうある。《抱え切れずに/こぼれたものは/君かもしれない》。これを聴いて、GLAYの「BEAUTIFUL DREAMER」を思い出した。《時の速さに流されぬよう 強く握り過ぎて壊したものは/オマエだったかな…》の箇所である。似てると言えば似てるし、似てないと言えば似てないので、“それほど関係はないのだろうな”と半信半疑で調べてみたら、GLAYのリーダーでコンポーザーのTAKUROは中学生の頃、ECHOESのファンで、初めて観たロックバンドのコンサートがECHOESだったというエピソードに辿り着いた。何もGLAYがECHOESをパクったとか、師弟関係にあるとか、そういうことを言いたいわけではない。TAKUROが「ビーズの指環」を意識して「BEAUTIFUL DREAMER」を書いたとは思えないので、無意識下での類似だったと思われるが、冒頭で述べたロックバンドの広がりを考えると、それはそれで素敵な話ではないか。

TEXT:帆苅智之

アルバム『Dear Friend』

1989年発表作品

<収録曲>
1.Dear Friend, Gentle hearts
2.Brother
3.Dear Friend
4.デラシネ
5.ZOO
6.片想い
7.アンカーマン
8.年頃
9.駅
10.神が作ったシナリオ
11.コスモス
12.ビーズの指環

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