ポール・マッカートニーのルーツ、いつだってそこにはリトル・リチャードがいた 1988年 10月31日 ポール・マッカートニーのアルバム「バック・イン・ザ・U.S.S.R.」が旧ソ連でリリースされた日

ロックンロールのオリジネーター、リトル・リチャード

ポール・マッカートニーのルーツはリトル・リチャードである。ポールほどリトル・リチャードをリスペクトし、その唱法を継いだロックンローラーはいないだろう。

ロックンロールのオリジネーターの一人、リトル・リチャードが5月9日に87年の生涯を閉じた。

ミック・ジャガーやキース・リチャーズ、キャロル・キングにブライアン・ウィルソン、エルトン・ジョンにボブ・ディラン等々、レジェンド達が続々とSNSで弔意を表す中、最後にツイッターでしかも4ツイートに渡りコメントを発表したのがポール・マッカートニーであった。

リンゴ・スター本人を始めとして、ジョン・レノンやジョージ・ハリスンの未亡人や遺児も揃ってコメントを出すほど、ビートルズの4人にとってリトル・リチャードは大きい存在だったが、とりわけポールはビートルズの中でも、そしてロック界においても恐らく最も、そのシャウト唱法においてリトル・リチャードの影響を受けたのではないだろうか。

そしてポールが80年代の苦闘から抜け出した時にも、そこにはリトル・リチャードがいたのだ。

ビートルズ4人のアイドル、リトル・リチャード

ザ・ビートルズは「ラブ・ミー・ドゥ」でレコードデビュー直後の1962年末、リヴァプールとドイツのハンブルクで憧れのリトル・リチャードと共演を果たし、交流もしている。

ビートルズが公式に発表したリトル・リチャードの曲は、1964年のシングル「ロング・トール・サリー(旧邦題:のっぽのサリー)」、同1964年12月リリースのアルバム『ビートルズ・フォー・セール』に収録された「カンサス・シティ / ヘイ・ヘイ・ヘイ・ヘイ」、そして後年1994年に『ザ・ビートルズ・ライヴ!! アット・ザ・BBC』で発表された「ルシール」と「ウー!マイ・ソウル」の4曲である。この4曲全てでリードヴォーカルを取ったのがポールだった。

そしてビートルズのデビューアルバムの1曲め「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」(1963年)も、ビートルズ日本公演最後の曲「アイム・ダウン」(1965年)もリトル・リチャードの影響の下ポールが書いた曲だった。

ビートルズ解散後もポールは1972年から73年にかけてのウイングスの初期ツアー時、ビートルズの曲は全く歌わない中「ロング・トール・サリー」と「ルシール」を歌っている。

一方ジョンも1969年のトロントでのフェスでリトル・リチャードと同じステージに立ち、1975年のカヴァーアルバム『ロックン・ロール』で「リップ・イット・アップ / レディ・テディ」「スリッピン・アンド・スライディン」「センド・ミー・サム・ラヴィン」とリトル・リチャードの曲を一気にカヴァーし、ビートルズ時代には取れなかったリードヴォーカルを取っている。

1979年12月末にロンドンで開かれたカンボジア難民救済コンサートでは、ポールがザ・フーやレッド・ツェッペリンのメンバーを含む総勢20名以上で結成されたロックのオーケストラ、ロケストラをバックに「ルシール」を歌っている。この模様はライヴ盤でリリースされた。

このように、70年代に入っても、特にポールとジョンは、変わらずリトル・リチャードへの敬意を表したのだった。

ポール・マッカートニー復活のきっかけ、リトル・リチャード

ジョンがこの世を去った80年代、その中盤からポールは特にチャート面で苦戦を続けることになる。

1983年の『パイプス・オブ・ピース』が米ビルボード最高15位と初めて10位入りを逃したのに始まり、翌1984年の自身主演の映画のサントラ盤『ヤァ!ブロード・ストリート』はイギリスで1位を獲得しながらも、映画の評判も成績もさんざんで、ビートルズのセルフカヴァーも話題に上らなかった。さらに1986年の『プレス・トゥ・プレイ』に至っては別稿『ショック!ポール・マッカートニーのアルバムが全米チャート最高30位!?』でも書いたが、ソロワーストを記録してしまう。

もちろん時代と歩調が合わなくなってきたこともあっただろう。しかしもう一つ大きな理由は、ジョンの逝去後ライヴから離れてしまったことにもあったのではないだろうか。

1985年7月のライヴエイドにおけるピアノ弾き語りでの「レット・イット・ビー」で、カンボジア難民救済コンサート以来5年半振りにステージに上ったポールは、翌1986年6月20日に遂にバンドとステージに立つ。ロンドン、ウェンブリーアリーナで開催されたプリンス・トラストコンサートである。

この模様は既に別稿『プリンス・トラスト'86 ポール・マッカートニーがライヴに還ってきた夜!』で書いているが、ポールは、チャールズ皇太子やダイアナ妃を前に、エルトン・ジョン、エリック・クラプトン、フィル・コリンズといったそうそうたるメンバーを従え6年半振りにバンドをバックに歌った。3曲の内2曲はビートルズ・ナンバーだったが、真ん中の2曲めが「ロング・トール・サリー」だったのだ。手にした楽器こそアコギだったものの、キーの高いこの曲を選んだところに攻めの姿勢が確かに見える。ポールの巻き返しがここから始まったのだ。

変わることのないリトル・リチャードへのリスペクト

ライヴの楽しさ、そして必要性を感じたポールは翌1987年の7月20日と21日にそれぞれ3名のミュージシャンとセッションを行い、実に22曲ものロックンロールをライヴレコーディングした。原点回帰、そしてバンドメンバー探しを目的としたものだった。

そしてここから11曲が選ばれ、翌1988年10月31日に旧ソ連だけでLPがリリースされた。1991年に全世界でもCD化された『バック・イン・ザ・U.S.S.R.(CHOBA B CCCP)』である。わざと海賊盤のようにリリースされたこのアルバムは、ジョンの『ロックン・ロール』を彷彿とさせる。そのオープニングを飾っていたのが「カンサス・シティ」であり、半ばには「ルシール」も収められていた。

ラフな作りだったこともあり変則的なリリースになったが、このアルバムで原点回帰したポールはこの時のドラマーも加えてバンドを結成、翌1989年に名盤『フラワーズ・イン・ザ・ダート』をリリースし、10年振りにツアーに復帰することになる。リトル・リチャードのナンバーはしっかりとポールの背中を押したのだった。

90年代以降も、カンサス・シティで特別に歌った「カンサス・シティ」を1993年のライヴ盤『ポール・イズ・ライヴ』に収めたり、2013年からの日本公演のサウンドチェックでは時々「ミス・アン」を取り上げたり、2014年、ビートルズが最後にコンサートを行ったサンフランシスコの球場キャンドルスティック・パークが取り壊される際にライヴを行いビートルズの時に最後の曲だった「ロング・トール・サリー」を歌ったりと、ポールのリトル・リチャードへのリスペクトは今日まで変わることが無かった。

「リチャードはよく “ポールがいま知っていることは全て僕が教えたんだ” と言っていた。僕はそれを認めざるを得なかった」

リチャードへのツイッターでここまで語っていたポール。本当はライヴで追悼の意を表したかったはずだが、世界的なコロナ禍の今、それが叶わないと思うと少し胸が痛む。

「沈黙は選択肢の中には無い」

ジョージ・フロイド事件に際し、6月5日、ポールはツイッターを始めとするSNSで、これまでにない強いトーンでレイシズム克服を訴え、リンゴもすぐに賛同の意を表した。ビートルズは男女グループソロを問わず黒人音楽の影響を強く受けている。ポールの脳裏にはもちろん、リトル・リチャードのことも浮かんだことだろう。

―― ポール・マッカートニー78回めの誕生日に記す

カタリベ: 宮木宣嗣

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