新型コロナ、感染の責任は問えるのか 訴訟社会の米国から考える【世界から】

営業規制が緩和された米ニューヨークの街頭で、マスクをして行動する市民ら=6月8日(AP=共同)

 新型コロナウイルスとの戦いは地球の至る所で続いている。世界最多となる231万人を超える感染者がいる米国でも、各州が外出制限をはじめとする感染拡大防止策を講じていた。5月に入ると制限が緩和され、閉めていた店なども再開し始めた。少しずつだが、日常生活が戻りつつある。同時に、感染リスクにどう向き合うのかという問題が立ち現れている。

 この問題に関し、筆者の周囲では「今年は署名しなければいけない免責書類がもう1枚増えるかもしれない」と心配する声が上がっている。そこにはトラブルを裁判によって解決しようとする「訴訟社会」米国ならではの問題がある。(米ミシガン州在住ジャーナリスト、共同通信特約=谷口輝世子)

 ▽訴訟回避の「保険」

 新型コロナウイルスに感染しても店側に賠償責任を求めないという書類を美容院が作り、顧客に渡した―。

 5月15日、中西部・インディアナ州の地元紙インディスター電子版がこのようなニュースをアップした。隣接するミシガン州に住む筆者も「商業施設内で新型コロナウイルスに感染しても経営者に賠償責任を求めない」という書類に遅かれ早かれ出くわすことになりそうだ。

 こういった免責同意書は法的に有効なのだろうか。調べたところ、有効とは言えないようだ。しかし、「訴訟回避の保険」として一筆取ろうとするのは米国ならではのことと言える。

 免責同意書に署名しなければ、サービスを提供しない。そう言われても、やみくもに同意することはできない。医学的な専門知識を持っていない筆者は何を基準にして署名するか否かの判断を下せばよいかが分からないからだ。

 ここで頼りになるのが、米疾病対策センター(CDC)が5月14日に発表したガイドライン。これは外出制限で影響を受けた学校や企業などが再開する際の指針となるものだ。

 企業や飲食店、学校、公共交通機関、介護施設など業種ごとに感染防止策とその手順を示している。その中から、飲食店に向けた指針を紹介する。まず、商品の配達や店頭での受け取りを推奨し、店内では客の人数を制限するほか、テーブル間はソーシャルディスタンス(社会的距離)を保つよう求めている。

米ジョージア州アトランタで、マスク姿で髪を切る理容師(左)=4月24日(ロイター=共同)

 ▽信頼が大切

 日本でも同じような対策が既に導入されているように、取り立てて目新しいことではない。だからこそ、基本と言えるこのガイドラインを守っているかが判断する際の基準として有効なのだ。

 米国では、トラブルが起きても責任を追及する権利をあらかじめ放棄することを記した「免責同意書」やけがなどを負う危険性があることを承諾する「危険告知書」への署名が求められることは珍しいことではない。

 筆者も数え切れないほどの文書に署名してきた。代表例は、学校に通う子どもが運動系の部に所属する際に提出するものだ。例えば、高校では「けがや死亡するリスクのあることを承諾する」といった文言に署名している。死亡リスクという文字を受け入れることは正直なところ心穏やかでない。それでも、サインできるのは学校側が安全確保のガイドラインに沿って部活動を運営しているという信頼があるからだ。

 ▽労使間でも

 このような書類が交わされるのは、経営者と顧客の間だけではない。労使間でも行われている。ラスベガスにあるレストランチェーンでは従業員に対して感染しても経営者を訴えないとする免責同意書への署名を迫った。このことがツイッターに投稿されたことで「炎上」。経営者側は文書を引っ込めざるを得なくなった。

 5月26日に取引を再開したニューヨーク証券取引所でも、同様のことが起きた。新型コロナウイルスに感染しても同証券取引所を訴えることを制限する免責書類への署名を立会場で取引に参加するトレーダーに求めたと、ウォールストリート・ジャーナル電子版が伝えている。

 一方、従業員から訴えられたらという経営者の不安は大きい。4月には実際の訴訟に発展した。小売大手「ウォルマート」のシカゴ近郊にある店舗に勤務していた男性従業員が新型コロナウイルスに感染し、3月25日に死亡した。当時この店舗では複数の従業員に新型コロナウイルスに感染した症状が出ていたという。男性の遺族は他の従業員に周知しなかったことや店舗の営業を停止して消毒を行うなどCDCのガイドラインに従った行動を取らなかったことを問題視。4月6日にウォルマートと店舗が入る施設を訴えた。

郵便局に掲示された新型コロナウイルスに関するCDCの注意書き=米ミシガン州ファーミントンヒルズ市、谷口輝世子撮影

 ▽感染防止の大切さ

 新型コロナウイルスの影響を受けて、多くの企業が大幅な減収になるなど厳しい経営状態にある。そんな中、従業員から感染の責任を問われて訴訟を起こされた結果、多額の賠償金を支払うことを経営者が避けたいと考えるのは想像に難くない。

 感染リスクをゼロにすることはできない。だからこそ、経営者らは適切な感染予防策をする必要がある。過失があったとみなされる恐れがあるからだ。CDCが定めた具体的な指針は感染を防ぐだけではない。経営者らにとっては、不注意や怠慢のために来店した客や従業員を感染の危険にさらしたと訴えられることから自身を守るためのツールであるのだろう。

 日本でも5月25日に緊急事態宣言が解除され、さまざまな社会活動が再開されている。感染の責任を問われることを恐れるが余り免責書などに署名を求める動きが出てくることは十分にあり得る。しかし、これはベストな解決方法ではない。優先してやるべきは、感染防止策を万全に施して客や従業員との間に信頼関係を築くことだ。

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