「村上春樹を読む」(105)名づけを巡る強いこだわり 再読『羊をめぐる冒険』

 承前と記すべきでしょうか。

 前回の「村上春樹を読む」の最後に少しだけ書いた『羊をめぐる冒険』(1982年)の「先生」と呼ばれる右翼の大物の車の「運転手」と「僕」の会話について紹介したいと思います。

 何しろ第四章「羊をめぐる冒険I」に「車とその運転手(1)」との節があり、第六章「羊をめぐる冒険II」には「車とその運転手(2)」という節があります。これは、先生の車の「運転手」と「僕」の会話が、この作品にとって、たいへん重要であることを示していると思います。

 村上春樹にとって、「猫」という動物はとても大切なものです。何しろ、小説家となる前に開いていたジャズ喫茶の店名が「ピーター・キャット」ですから。

 「猫」は、初期3部作の『風の歌を聴け』(1979年)と『1973年のピンボール』(1980年)、そして、この『羊をめぐる冒険』にも一貫して出てきます。「僕」の分身的な友人は「鼠」と呼ばれていますので、「僕」自身は「猫」に相当しているのかな……と思い、村上春樹のユーモア精神を感じてもいます。ルイス・キャロルの『不思議な国のアリス』にも「鼠」や「チェシャ猫」が出てきますね。

 そして、初期3部作の「僕」も、友人の「鼠」も、ちゃんとした名前がつけられていません。この3部作だけでなく、ある時期までの村上春樹の登場人物には「名前」がありませんでした。以前にも紹介しましたが、村上春樹作品で登場人物に姓名が記された印象的な名づけは「象の消滅」(短編集『パン屋再襲撃』1986年)の象の飼育係「渡辺昇」ではないでしょうか。

 「渡辺昇」は村上春樹と親しい画家で、亡くなった安西水丸さんの本名です。ただし、細かいことを言いますと、「文学界」1985年8月号に掲載された時には飼育係「渡辺進」となっていました。単行本の収録版でも「象と一緒に消えてしまった飼育係(渡辺昇・63歳)」と書かれているだけですので、本格的な名づけというわけでもありません。

 でも『ノルウェイの森』(1987年)では、主人公の名前が「ワタナベ・トオル」となっていましたし、さらに『ねじまき鳥クロニクル』(1994年―1995年)では、「僕」が対決する妻の兄の名前が「綿谷ノボル」でした。同じ「ワタヤ・ノボル」という名前の「猫」が登場する作品です。これらはいずれも「渡辺昇」の変形ですね。だから「渡辺昇」という名づけを印象的に、私が感じているのかもしれません。

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 初期3部作に登場する人物にちゃんとした名前がないからと言って、村上春樹が「名づけ」に興味がないかというと、むしろ逆です。名づけに対して、強いこだわりと思考が、『羊をめぐる冒険』に記されているのです。

 『羊をめぐる冒険』で「僕」が飼っている「猫」を「先生」の車の「運転手」に預けるのですが、その「猫」には名前がありません。

 車の「運転手」が「なんていう名前なんですか?」と尋ねると、「名前はないんだ」と「僕」は答えます。

 「じゃあいつもなんていって呼ぶんですか?」と「運転手」が聞くので「呼ばないんだ」「ただ存在してるんだよ」と「僕」は答えています。

 「でもじっとしてるんじゃなくてある意志をもって動くわけでしょ? 意志を持って動くものに名前がないというのはどうも変な気がするな」と「運転手」は述べています。

 かなり議論好きな「運転手」なんです。

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 「鰯(いわし)だって意志を持って動いてるけど、誰も名前なんてつけないよ」と「僕」は反論しますが、「だって鰯と人間とのあいだにはまず気持の交流はありませんし、だいいち自分の名前が呼ばれたって理解できませんよ。そりゃまあ、つけるのは勝手ですが」と「運転手」は再反論。

 「ということは意志を持って動き、人間と気持が交流できてしかも聴覚を有する動物が名前をつけられる資格を持っているということになるのかな」と問うと、「そういうことですね」と「運転手」は何度か肯いて、この無名の「猫」について「どうでしょう、私が勝手に名前をつけちゃっていいでしょうか?」と申し出ます。

 「全然構わないよ」と「僕」が応えると、「いわしなんてどうでしょう? つまりこれまでいわし、同様に扱われていたわけですから」と提案するのです。

 「悪くないな」と「僕」は同意、「そうでしょ」と「運転手」は得意そうに言います。

 「僕」のガール・フレンドも「悪くないわ」と言います。「なんだか天地創造みたいね」と彼女が述べると、「ここにいわしあれ」と「僕」と和して言うのです。

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 登場人物ではなく、登場動物への名づけですが、儀式的な議論の末での名づけのようにも感じます。

 第六章「羊をめぐる冒険II」の、この節は「いわしの誕生」と名づけられています。文庫版の上巻の最後の節でもありますので、重要な名づけの場面です。

 村上春樹が「猫」に名前をつける時、魚系の名前が多いことは、この「村上春樹を読む」の中でも紹介してきました。

 『ねじまき鳥クロニクル』では行方不明だった「ワタヤ・ノボル」という「猫」が家に帰ってきて、「サワラ(鰆)」と改名されています。『海辺のカフカ』(2002年)には「トロ」という鮨屋で飼われている黒猫が登場しました。

 『ねじまき鳥クロニクル』では「サワラ」と「猫」が改名されたことが、最後に「僕」の妻クミコの帰還の予兆となっていますし、『羊をめぐる冒険』では無名時代の「猫」の「毛はすりきれたじゅうたんみたいにぱさぱさして、尻尾の先は六十度の角度にまがり、歯は黄色く、右眼は三年前に怪我したまま膿がとまらず、今では殆んど視力を失いかけていた」のですが、その「猫」が「いわし」と名づけられると、物語の最後には「いわし」は元気になって、まるまると太っています。

 これら村上春樹作品の中での「猫」への魚系の名づけには、再生への思いが込められているように思います。

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 「いわし」という「運転手」による「猫」への名づけが終わったあとにも、名づけに対する「運転手」と「僕」の会話は、さらに続いています。むしろ、深まっているとも言えます。

 例えば、こんな話です。

 「どうして船には名前があって、飛行機には名前がないんだろう?」と「僕」は「運転手」に訊ねます。面白い疑問ですね。

 「どうして971便とか326便というだけで、『すずらん号』とか『ひなぎく号』とかいう個別の名前がついてないんだろう?」と「僕」は聞くのです。

 それに対して「きっと船に比べて数が多すぎるんですよ。マス・プロダクトだし」と「運転手」は答えますが、「僕」は「そうかな? 船だって結構マス・プロダクトだし、数も飛行機より多いよ」と反論しています。

 「しかし」と言って、「運転手」は何秒か黙ったあと、「現実問題として都バスにいちいち名前をつけるわけにもいきませんからねえ」と漏らすと、「都バスにひとつひとつ名前がついていたら素敵だと思うけどな」とガール・フレンドが加わってきます。

 「しかしそうなると乗客が選り好みをするようになるのではないでしょうか? たとえば新宿から千駄ケ谷まで行くのに、『かもしか号』なら乗るけど『らば号』なら乗らないとか」と「運転手」が言います。

 「たしかに『らば号』なら乗らないわね」とガール・フレンドが言います。

 「でもそれじゃ『らば号』の運転手が可哀そうです」と「運転手」が運転手的な発言をしています。「『らば号』の運転手に罪はありません」と言うのです。

 「そうね」とガール・フレンドは同意するのですが、「でも『かもしか号』に乗るわ」と述べています。

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 「そういうことなんです。船に名前がついているのは、マス・プロダクトされる以前からそれに慣れ親しんできた名残りです。原理的には馬に名前をつけるのと同じですね。だから馬的に使われている飛行機にはちゃんと名前がついています。たとえば『スピリッツ・オブ・セントルイス』とか、『エノラ・ゲイ』とかね。ちゃんと意識の交流があるんです」と「運転手」は言うのです。

 「スピリッツ・オブ・セントルイス」はリンドバーグがノンストップでの大西洋横断単独飛行に成功した飛行機の愛称ですし、「エノラ・ゲイ」は広島に原爆を投下した米軍の飛行機B―29の名前です。

 この後も、名づけを巡る会話が続いていて、「意識の交流がある」と名づけがされるということは「生命というコンセプトが根本にあるということだね」「じゃあ目的性というのは名前にとっては二義的な要素なんだね?」と「僕」が問います。

 それに対して「運転手」は「そうです。目的性だけなら番号で済みます。アウシュヴィツでユダヤ人がやられたみたいにね」と答えています。

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 これで、名づけを巡る会話(対話?)は終わりではなく、「しかしさ、もし名前の根本が生命の意識交流作業にあるとしたらだよ。どうして駅や公園や野球場には名前がついているんだろう? 生命体じゃないのにさ」と「僕」が発言して、さらに、さらに続いていくのです。

 それらのやり取りを紹介していると、それだけで、今回の「村上春樹を読む」が終わってしまいますので、興味のある人は『羊をめぐる冒険』をぜひ読んでください。

 ともかく、村上春樹が「名づけ」ということに、たいへん深いこだわりを抱いていることが伝わってくる「僕」と「運転手」の会話なのです。

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 そして「名づけ」の行為以外に、この「僕」と「運転手」の会話を通して、今回の再読で伝わってきたことがあるので、そのことをいくつか記しておきたいと思います。

 まず、「猫」への「いわし」の名づけや、名づけるということを巡る「運転手」と「僕」との会話は、「羊」を探すために北海道へ向かう「僕」と「ガール・フレンド」を「運転手」が飛行場まで送る間のやり取りです。

 空港カウンターで搭乗券をもらった「僕」と「ガール・フレンド」は、そこまでついてきた「運転手」にさよならを言います。「運転手」は最後まで見送りたそうでしたが、出発までには、まだ1時間半もあったのであきらめてひきあげていきます。名づけを巡る会話を通して、「僕」たちと「運転手」は、ずいぶん親しくなったとも言えますね。

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 そして「僕」と「ガール・フレンド」が搭乗する飛行機は「747」なのです。

 「彼女は唇をかんで、しばらく747のずんぐりした機体を眺めていた。僕も一緒にそれを眺めた。747はいつも僕に昔近所に住んでいた太った醜いおばさんを思い出させる。はりのない巨大な乳房とむくんだ足、かさかさした首筋。空港は彼女たちの集会場みたいに見えた。何十人ものそういったおばさんたちが次々にやってきては去っていった」

 そのように「747」のことが記されています。続けて、こうあります。

 「首筋をしゃんとのばして空港ロビーを行ったり来たりしているパイロットやスチュワーデスは、彼女たちに影をもぎとられたみたいに奇妙に平面的にみえた。DC7やフレンドシップの時代にはそんなことはなかったような気がしたが、本当にそうなのかどうかは僕には思い出せなかった。おそらく747が太った醜いおばさんに似てるせいで、ついそんな気がするのだろう」

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 この「747」を「太った醜いおばさんに似てる」と表現していることの意味はどんなことなのでしょう。そのことを少し考えてみたいと思います。

 村上春樹の小説で「747」が登場する最も有名な場面は『ノルウェイの森』(1987年)の冒頭でしょう。それは次のように書き出されています。

 「僕は三十七歳で、そのときボーイング747のシートに座っていた。その巨大な飛行機はぶ厚い雨雲をくぐり抜けて降下し、ハンブルク空港に着陸しようとしているところだった。十一月の冷ややかな雨が大地を暗く染め、雨合羽を着た整備工たちや、のっぺりとした空港ビルの上に立った旗や、BMWの広告板やそんな何もかもをフランドル派の陰うつな絵の背景のように見せていた。やれやれ、またドイツか、と僕は思った」

 『ノルウェイの森』の冒頭、「僕」が乗った飛行機がなぜハンブルク空港に着陸するのか。それは1つに、1960年8月にドイツ・ハンブルクの巡業でビートルズがデビューしたからということがあるかと思います。

 それと、もう1つは第2次世界大戦中に、英国空軍の指揮の下に、航空戦史上に残る激しい空襲をハンブルクが受けて、のちに英国政府が「ドイツのヒロシマ」と呼んだほどに破壊されたということと関係があるかと思います。

 そのような考えも成り立つことを、以前、この「村上春樹を読む」でも紹介しました。

 広島へ原爆を投下した「エノラ・ゲイ」は「B―29」で、ボーイング社の飛行機です。「747」も同じ会社の飛行機です。原爆投下のイメージが『ノルウェイの森』の「ボーイング747」には重なっているのではないかと考えているのです。

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 「ボーイング747」は550を超える座席が装備可能という、1970年代以降の大量輸送を支えたジャンボジェットで、効率性を追求した飛行機ですが、日本でも2014年3月まで、40年以上、運航されていました。

 『羊をめぐる冒険』の中で「太った醜いおばさんに似てる」と女性に喩(たと)えられているのは、その愛称が「空の女王」とも呼ばれたことだからかと思います。

 その「空の女王」を「太った醜いおばさん」という表現には、広島に原爆を投下した「エノラ・ゲイ」と同じ会社の飛行機という意味も込められているのではないかと、感じられました。

 紹介したように「首筋をしゃんとのばして空港ロビーを行ったり来たりしているパイロットやスチュワーデスは、彼女たちに影をもぎとられたみたいに奇妙に平面的にみえた」とありますが、ここにも原爆投下直後、高熱で、一瞬にして影をも、もぎとられてしまった被爆者たちの姿も私は想像してしまいます。

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 『ノルウェイの森』の冒頭で、ハンブルク空港に着陸するボーイング747からは「BMWの広告板」が見えますが、BMWは第2次世界大戦中にドイツの戦闘機のエンジンを作っていたことがあります。だから「やれやれ、またドイツか、と僕は思った」のでしょう。愉快な「名づけ」を巡る「運転手」と「僕」の会話の中にも、村上春樹作品を貫く、このような「歴史意識」が反映しているのだと思います。

 もちろん、戦争中は各国の航空機メーカーが、戦争のための飛行機を生産しているので、ボーイングやBMWばかりの問題ではないのですが。

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 村上春樹作品を貫く「歴史意識」の視点から考えると、「じゃあ目的性というのは名前にとっては二義的な要素なんだね?」「そうです。目的性だけなら番号で済みます。アウシュヴィツでユダヤ人がやられたみたいにね」という「僕」と「運転手」の会話にも村上春樹の「歴史意識」の反映を感じます。

 『風の歌を聴け』の冒頭近く、「僕」が文章についての多くを学んだ、殆んど全部を学んだというべきかもしれない作家デレク・ハートフィールドが、1938年6月のある晴れた日曜日の朝、「右手にヒットラーの肖像画を抱え、左手に傘をさしたままエンパイア・ステート・ビルの屋上から飛び下り」て死んだことが記されています。

 ヒットラーや全体主義の問題への関心は、デビュー作以来続くものですが、「目的性だけなら番号で済みます。アウシュヴィツでユダヤ人がやられたみたいにね」という言葉にも、名づけを巡る会話の中に、全体主義の問題を忘れぬ村上春樹の姿を見ることができると思うのです。

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 『騎士団長殺し』(2017年)には「イデア」が「騎士団長」として形体化して、登場しますが、その「騎士団長」と「私」との会話の中で「E=mc2という概念は本来中立であるはずなのに、それは結果的に原子爆弾を生み出すことになった。そしてそれは広島と長崎に実際に投下された」ことが語られています。

 さらに、この長編には、ナチス・ドイツによるオーストリア併合の話が出てきます。ナチズムも大きくなりすぎた「イデア」が人を支配する力を持つに至ったものであることが記されているのです。「原子力による爆弾」と「全体主義の問題」。現在の最新長編である『騎士団長殺し』にも、変わらぬ一貫した「歴史意識」を持って書き続けてきた村上春樹の姿を受け取ることができると思うのです。

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 今回『羊をめぐる冒険』を再読して、伝わってきたものを、もう1つ、加えておきますと、キリスト教的なものへの村上春樹の関心のようなものも感じました。

 「いわし」という「猫」への名づけに対して、「僕」のガール・フレンドも「なんだか天地創造みたいね」と言っていました。

 「猫」に「いわし」と名づけた「運転手」は、前回の「村上春樹を読む」でも紹介したように「クリスチャン」です。それを聞いて、「僕」は「クリスチャンであることと右翼の大物の運転手であることは矛盾しないのかな?」と問いかけていました。

 キリスト教的なものへの村上春樹の関心の在りようを、それ以上具体的に指摘することは、いまの私にはできないのですが、例えば、こんなことが印象に残っています。

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 『海辺のカフカ』の中で、東京都中野区のある一角にイワシとアジが空から降り注ぐという場面があります。「何の前触れもなく、おおよそ2000匹に及ぶ数の魚が、雲のあいだからどっと落ちてきたのだ」とあります。

 映画『マグノリア』の最後に、空からたくさんのカエルが落ちてくる場面があり、『海辺のカフカ』が刊行された時、その関連、引用ではないかということが、言われたりしました。

 あまりに関連が言われるからかもしれませんが、「鰯とアジが降ってくることで『マグノリア』のシーンを思い出したという人が多いんだけど、空から生き物が降ってくるというのは『マグノリア』以前から既に定型としてあったこと」「聖書からの引用でもありますし、また現実にも(不思議ですが)ちょくちょく起こっていることです」(『村上春樹編集長 少年カフカ』(2003年)=『海辺のカフカ』の刊行直後の読者とのインターネットメールでの応答集)と述べていました。

 きっと、『聖書』に詳しいのでしょう。今回、「鰯」との関連で、そんな村上春樹のことも思い出したのです。

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 村上春樹作品をもう1度、最初から読み返したいと思って、その愛読者たちと小さな読書会のようなものを催せたらと思っていたのですが、コロナウイルスの時代、なかなかリアルな会は難しく、延び延びになっていました。

 ようやく、先日、オンラインで、小人数の読書会を試みました。慣れない作業で難しい面もありましたが、楽しかったですよ。

 何しろ、いろいろな読者の読みというものが、ほんとうに刺激的で、なるほどと、私が考えたこともなかった読みに触れたりできました。(共同通信編集委員 小山鉄郎)

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「村上春樹を読む」が『村上春樹クロニクル』と名前を変えて、春陽堂書店から刊行されます。詳しくはこちらから↓

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