木村重成 ~顔良し・性格良し・武勇に優れた戦国一のイケメン武将

目次

木村重成とは

木村長門守重成朝臣之像

木村重成(きむらしげなり)は、豊臣秀頼に仕えた戦国一の美男子と呼ばれた若武者である。

初陣となる大坂冬の陣で武功を挙げて、一躍その名を世に知らしめた若武者は背が高く、色白で立ち振る舞いが良く、礼儀作法や言動も粗暴なところがなかった。

刀・槍・馬術にも優れており、まさに戦国時代の貴公子であったという。

そんな戦国一のイケメン武将・木村重成について追っていく。

生い立ち

木村重成(きむらしげなり)は豊臣秀吉の甥で関白・豊臣秀次の家老をしていた木村重玆の次男として生まれた。

生年ははっきりしておらず、通説では文禄2年(1593年)頃だとされている。

文禄4年(1595年)秀次事件で父・重玆は秀次を弁護したために兄・高成と共に自害となり、重成は幼年だったために命は助けられた。

豊臣秀吉

重成の母・宮内卿局は、大坂城の淀殿に気に入られて豊臣秀頼の乳母となり、重成は秀頼の小姓となった。

秀頼と重成は年が近く、お互いを信頼し合い、秀頼が元服すると重成は豊臣家の重臣の一人として3,000石を与えられ、重要な会議にも出席するようになる。

重成は色白で背が高く、刀・槍・馬術と武芸に長けていた上に礼儀正しく、非の打ちどころがない人物と評判であった。

大坂冬の陣

徳川家康と秀頼・淀殿の豊臣家との対立が深まり、豊臣家は豊臣恩顧の大名たちに大坂城への参集を呼びかけ、全国の浪人を集め出した。
しかし、豊臣恩顧の大名は誰も集まらず、重成は大野治長らと共に徳川との開戦を主張し、大坂城に浪人たちを集めた。

家康が豊臣家にいちゃもんをつけた方広寺鐘銘事件が起きると、豊臣家家老の片桐且元が家康に申し開きに駿府城へ入った。

その時に重成は侍女に女装して且元に同行したという。色白だったために誰にもバレなかったという逸話もある。

家康は且元に徳川・豊臣の親和案を出せと命じる、すると且元は「秀頼の江戸参勤」「淀殿を江戸に人質」「国替えして大坂城から退去」と私案を提案した。

勝手な私案に淀殿は激怒し、大野治長と重成は且元の暗殺を計画。且元は身の危険を察知して大坂城から逃亡した。

すると家康は「且元は豊臣の家臣だが、家康の家臣でもある、秀頼は独断で私の家臣の且元を殺そうとした」と怒り、全国の諸大名に大坂城への出陣を求めた。

慶長19年(1614年)10月、大坂冬の陣となる。

重成は大坂五人衆の一人・後藤又兵衛に「自分は若輩ゆえ戦の経験がない、どうか戦に際して存分にお引き廻し願いたい」と申し出て、今福砦の攻防戦に3000の兵を率いて向かった(今福の戦い)

今福の戦い wiki(c)Blowback

佐竹義宣の約1,500の兵と戦い、重成は初陣で義宣の重臣・渋江政光を討ち取る。

その際、重成軍の部隊長を務めた大井某が戦場で倒れているのを見つけた重成は、鉄砲や騎馬の襲撃に対して自らが殿(しんがり)を務め、味方に大井某を運ばせている。
その武勇は味方だけではなく敵からもあっぱれと称賛されたという。

また、真田丸の戦いにも参加して、その時には敵兵の中に真田の六文銭の旗印を見つけて真田信繁(真田幸村)に「敵方の真田軍の先頭に二人の若武者がいる、もしかしてお身内の者ではないか」と声を掛けた。

すると信繁(幸村)は「二人共私の甥である、二人共討ち取ってください」と言った。

重成は「一族が引き分かれて戦っている、きっと和睦になって対面出来る日が来る」と言って慰めた。

そして、家臣たちに「真田信吉と真田信政を鉄砲で狙撃しないように」と強く命じて家臣たちは二人を撃たなかったという。

初陣にして敵の武将を討ち取り、味方を助け「豊臣家に重成あり」と世に知らしめ、秀頼からは真田信繁・後藤又兵衛・長宗我部盛親と共に、豊臣四天王と呼ばれる活躍をしたのだ。

和議となった時には秀頼の正使として徳川秀忠と誓書を交わし、調印にあたっては家康の血判の血が薄くて鮮明ではないと直談判して鮮明な血判を求めた。

その気然たる姿と度胸に、徳川方の名だたる武将も驚いたという。

大坂夏の陣

慶長20年(1615年)1月7日、重成は真野頼包の娘・青柳を嫁に迎えた。
青柳は大野治長の母・大蔵卿局の姪で、淀殿に仕えていた側近の一人でとても美しく、大坂城の中で一番きれいな女性と評判だった。

青柳は大坂城内で重成を見かけて一目惚れしてしまい、重成に恋の歌を送ったという。
重成はそれに応じて大坂城一の美男美女カップルが誕生した。

5月、大坂夏の陣では、豊臣勢の主力として長宗我部盛親と共に八尾・若江方面に出陣し、若江で4,700の兵を率いて藤堂高虎井伊直孝の軍と対峙した(八尾・若江の戦い

八尾・若江の戦い wiki(c)Blowback

重成は藤堂高虎軍の右翼を奇襲で破り藤堂軍を壊滅状態にした。

その勢いに乗って進軍しようとした兵たちを重成は抑え、昼食を摂らせて井伊直孝の軍を待った。

井伊直孝の5,600の兵と激戦となるが、重成の軍は早朝から戦っていたために、やがて力尽き劣勢となった。

家臣の飯島三郎右衛門が「この手柄をもって大坂城へ引きましょう」と撤退を進言した。

しかし、重成は「まだ家康・秀忠の首を取ってはいない」とこの進言を拒否、そして自らの兜の緒の端を切り落として「再び兜を着ることがない」と討死の覚悟を示した。

そして家臣の制止を振り切り、槍を取って敵に突撃して戦死したという。享年23歳だとされている。

藤堂軍と井伊軍はこの戦いで甚大な被害を受け、翌日の天王寺・岡山の戦いの先鋒を辞退せざるをえなくなったという。

残念様

重成の首級は家康のもとに届けられた。その時、頭髪に香が焚き込めてあったという。「討死を覚悟して挑んだ稀世の若武者」と家康は重成を称賛した。
これは妻・青柳が死を覚悟した夫の兜に香を焚き込めて渡したとされている。

青柳は別れの時には妊娠していて、後に近江の親族のもとで男子を出産して出家し、重成の一周忌を終えると自害したという(享年20)

青柳が出産した男子は馬淵家の婿養子となって、馬淵源左衛門と名乗ったとされている。

滋賀県彦根市宗安寺にある木村重成首塚。wiki(c)立花左近

重成の首は井伊直孝の家臣・安藤重勝が彦根まで持ち帰り、安藤一族の菩提寺である宗安寺に埋葬した。宗安寺には今も木村重成の首塚がある。

重成の150忌にあたる宝暦14年(1764年)安藤家の子孫は徳川幕府公認の墓を建てている。

重成の死から200年以上経った文政11年(1828年)、重成の墓に参拝するというブームが突如として発生した。

大坂夏の陣での非業の死を遂げた重成を「残念様」と呼び、願をかけると願いごとが叶う神様として大坂の人々は親しんだという。

おわりに

木村重成は大坂冬の陣の前までは、一度も戦に参陣したことがないのに軍議に参加していることを諸将に馬鹿にされたという。

しかし、重成は少しも怒らず冷静に受け止め、後藤又兵衛に戦のイロハを教わり、いつしか二人は親子のような関係になった。

初陣にもかかわらず豊臣四天王と称賛されるほどの武功を挙げて、馬鹿にした歴戦の強者らを黙らせている。

顔良し・性格良し・武勇に優れた戦国一のイケメン武将は、短い人生を主君・豊臣秀頼に捧げて散ったのだ。

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