佐世保空襲75年

 75年前のきょう、佐世保市は焼け野原になった。1945年6月28日午後11時58分から翌日未明にかけての佐世保空襲。1242人が犠牲となった▲米軍による本土空襲は44年秋以降に本格化した。当初は軍需工場などを標的にしていた米軍だが、十分な効果がないとみると、火災を起こす焼夷(しょうい)弾で市街地を攻撃する無差別爆撃に切り替える▲約10万人の犠牲者を出した東京大空襲から3カ月半余り。大雨を突いて佐世保上空に突如現れた米軍のB29爆撃機編隊は、約千トンの焼夷弾を市中心部に落とし続けた。人々は猛火の中を逃げ惑った。全戸数の35%に当たる約1万2千戸が焼失し、6万人超が被災した▲73年に「佐世保空襲の記録編集会」が発行した「火の雨」は生々しい証言記録集だ。炎で黒焦げになった人、機銃で撃ち抜かれた人、大人数が一気に防空壕(ごう)に逃げ込んだために押しつぶされて窒息した人。一般市民を狙った慈悲のかけらもない殺りくは8月9日の長崎へとつながってゆく▲「火の雨」はこう訴える。「(戦争は)いかなる犯罪よりも重い超一級の重犯罪であることを私たちは知らねばなりません」▲戦後75年がたち、戦争を知る人は著しく減った。体験者の証言はむろん、残された記録、すなわち過去からの声にも耳を澄ませていきたい。(潤)

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