焼夷弾の雨、「島永君」の死…熊本大空襲75年 91歳元教師がたどる記憶の街

©株式会社熊本日日新聞社

白川小の校舎に残る熊本大空襲で焼けた跡(右上)を見て、児童に悲惨な思い出を語る上村文男さん(右)=6月24日、熊本市中央区(池田祐介)
1945年7月1日の熊本大空襲で焼け野原となった熊本市中央区の新市街一帯。ガレキの中にポツンとビルが残っている
熊本大空襲時、命からがら逃げた道をたどる上村文男さん=6月24日、熊本市中央区(池田祐介)

 1945年8月の敗戦から75年。当時、熊本も戦争一色だった。県内各地に展開された旧日本軍の部隊や軍需工場、市民が犠牲になった空襲、銃後の暮らし-。戦後、復興を遂げる中で、その爪痕を知るすべは失われてきた。地域で暮らす人々の証言と、今も残る貴重な戦争の遺構などから、足元の土地に宿る「記憶」をたどる。

 6月24日昼下がり、熊本市中央区大江。学校や図書館が密集する文教地区を、夏服の生徒たちが談笑しながら行き交う。気温30度を超す炎天下でもマスク姿が日常の風景だ。

 上村文男さん(91)=熊本市北区=は、傘をつえ代わりにして一歩一歩足を踏み出す。脳裏で交錯する75年前の光景。深夜なのに辺りは赤い炎に照らされ真昼のようだった。母校の旧制熊本中(現熊本高)が燃え上がるのを横目に父と必死で走った。米爆撃機B29の爆音、逃げ惑う人々。親友は背中に焼夷[しょうい]弾が直撃して死んだ-。

 1945年7月1日の熊本大空襲。上村さんは熊本中4年で、実家は大江小の近くにあった。あの夜は家族が寝静まった後、空襲警報が鳴り響いた。母親や妹は先に避難し、上村さんと父親が家に残った。焼夷弾の雨は次第に激しさを増した。「新屋敷方面から火の手が一気に迫り、日ごろのバケツリレーの訓練なんか役に立たなかった」。家を諦め、今の熊本学園大の東側に広がっていた「渡鹿練兵場」へ逃げた。

 上村文男さん(91)=熊本市北区=が命からがら逃げたという当時の道順を一緒に歩いた。一面、焼け野原になっていた一帯には今、十数階建てのマンションやショッピングモールが立ち並ぶ。焼けた実家があったまさにその場所は3階建ての集合住宅になっていた。

 なぜ、この一帯が大空襲の目標にされたのか-。「この辺りは軍の施設ばかりでした」と上村さん。熊本学園大一帯は「歩兵第13連隊」、白川中は「野砲兵第6連隊」、開新高は「騎兵第6連隊」。現在、文教地区の“顔”となっている学校群の敷地は軍の施設跡だった。「米機は軍事施設とともに、市民の戦意喪失のために徹底して街並みを焼いた」と語気を強める。

 軍都の遺構を求めて熊本学園大横の産業道路沿いに向かった。歩兵第13連隊正門跡の赤れんがの壁が残っていた。上村さんはここに立つと思い出す。「兵隊がたくさんいたが、街の火を消そうとも、逃げる人々に手を貸そうともしなかった」

 当時、軍国教育を受け、日本の戦勝を疑わなかったという上村さん。だが、「あの時、軍隊は戦争をする組織で、市民を守ってはくれないと知った」。戦後は教師となり、次第に平和運動や戦争体験の継承がライフワークになった。

 空襲で焼けた跡が残る白川小を訪ねた。当時は珍しかった築84年の鉄筋コンクリートの本校舎。理科室前の壁に埋め込まれた木の一部が黒く焦げていた。

 上村さんの話を聞きたいと出迎えたのは、6年生の平野百華さんと古賀有真[ゆうま]君。「当時、同級生に島永君という子がいてね…」。2人を前に上村さんの記憶が再びよみがえる。耳を傾けていた平野さんと古賀君は少し緊張した面持ちになった。

 「今のあなたたちより四つ上の16歳。空襲で逃げる途中、近所のおばあさんをおぶって、すぐ近くの白川の土手まで助け出した後、背中に焼夷弾を受けて焼死した。多くの子どもが犠牲になったんだ」

 祖父母も戦後生まれという古賀君は「亡くなったひいおじいちゃんは戦争のことを話したがらず、熊本大空襲のことは知らなかった」。平野さんは「沖縄戦や原爆、終戦の日などは意識していたけど、熊本の空襲についても詳しく学びたい」と真剣に受け止めた。

 上村さんは「まずはこの場所の物語を友だちにも伝えてほしい。当時の生活に思いをはせることが、戦争について考えるきっかけになるはずです」。戦後75年の時を刻んだ校舎に差し込む、午後の日差しの中でほほ笑んだ。(堀江利雅)

 ◇熊本大空襲 1945年7月1日深夜から2日未明にかけて、米軍機が熊本市中心部の新市街や水道町、新屋敷、大江の軍事施設や工場、駅などに焼夷(しょうい)弾を投下し、一帯が焼失。8月10日にも大規模な空襲があった。「新熊本市史」によると、この2回の空襲で617人の命が犠牲となり、1317人が重軽傷。家屋被害は約1万2千戸に上った。