インターネットは“普通の人々”の政治的な本音を映し出す。そしてその本音は美しくない

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SNSは水面下に隠れていた素朴な愛国や反日排撃を引き出した

「日本人の結合力というものは、孤独の淋しさからきているのですね」ーー。こう戦後初期に喝破したのは、民俗学者の柳田國男だった。

『ルポ 百田尚樹現象〜愛国ポピュリズムの現在地』(小学館)の執筆期間中、そして今回の新型コロナ禍で考えていたのが、インターネットの限界と、この言葉の意味だった。

インターネットの「幻想」の時代は今、終わりを告げつつある。

2010年代の主役であったインターネットが、常に「革命」という無邪気な言葉とともに語られた時代は確実に終わり、「普通の人々」の政治的な本音を映し出すものになった。

本音は決して美しいものばかりではない。SNSやインターネットニュースのコメント欄は、水面下に隠れていた素朴な「愛国」や「反日」排撃を、あるいは政治的な立場を超えた「怒り」を映し出す場になっている。

そして私は、排他的で極端な右派言論であっても、マーケットができ上がる「百田尚樹現象」を支えているのは、こうしたインターネットの場であると考えている。

百田尚樹氏が『探偵!ナイトスクープ』のスタッフ会議で発言していたこと

とりわけSNSやコメント欄を通じて「普通の人々」が気軽に意見表明できるようになったことは大きい。そんなメディアの変化を象徴する存在こそが百田だ。

関係者の証言によれば、関西の人気テレビ番組『探偵!ナイトスクープ』のスタッフ会議で、百田が嫌韓・嫌中的な発言を漏らすようになったのは2000年代のことだった。

彼は番組開始時から快進撃を支えたチーフ構成作家であり、もとより非常におしゃべりなので周囲は流していたという。SNSが出てくる以前、こうした「市井の言葉」は狭いコミュニティの中にとどまり、広く聞かれることは、あまり無かった。

ここから考えれば、彼はリアルで語っていたような内容とほぼ同じようなことを、ツイッターでつぶやいているだけだったとも言える。

彼が右派論客として、論壇の一員になっていくのは2011年以降のことだ。

百田のツイッターを見た右派系言論の大物編集者である花田紀凱が拾い上げ、ベストセラー作家兼「右派言論人」としてデビューすることになった。ツイッターと、出版というメディアが結びつき「百田尚樹現象」は完成に向かう。

私は本書で、百田は発言の影響力について「無自覚」だと書いた。彼は自分が言いたいことを言い、書きたいことを書いているだけで影響力に対する自覚はまるでない。

百田の自覚のなさはSNS的な気軽さとリンクしている。それは決定的に「新しい」ものだった。

敵/味方に分かれ、閉じていき、仲間内でしか通用しない言葉ばかりが流通していくインターネットに議論は存在しない。議論なき言葉はやがて劣化する。

そもそも人間は、右派であっても、左派であっても、自分の政治的イデオロギーに合致しない科学的発見を受け入れないことは実証されている(日経サイエンス2019年4月号「科学的思考を阻むバイアス」)。

議論なき言葉の劣化、代弁者を求める空気が呼び込むのは、ポピュリズムの時代だ。そしてそこには、強烈な副作用があるように思えてならないのだ。

新型コロナで明らかになったのは、無自覚な「敵の発見」だ

新型コロナ禍でも明らかになったが、私は今後強まっていくのは無自覚に進んでいく「敵」の発見だと思っている。

「普通の日本人」が「普通」でないものを攻撃するように、例えば「自粛し、我慢している人々」は「自粛していないーと彼らがみなすものー」を自覚ないまま敵とみなし、攻撃を強めていく。自粛警察の誕生だ。

その結果、もたらされるのは「自分たちと違うもの=敵」とみなし、気軽にバッシングし、叩いていたということすら無自覚になり、忘れ、次の対象が見つかればまた気軽にバッシングしていくという連鎖だ。

「孤独の寂しさ」「不幸な挙国一致」とは違う道

より正確には「日本人の結合力というものは、孤独の淋しさからきているのですね。そのためにみんなのすることをしないでおっては損だという気持ちが非常に強いのですね」と語った、民俗学者の柳田國男は戦後初期に新しい国語と社会の教科書を作ろうとしていた。

年齢的にも業績的にも大物言論人であった柳田は、さらにこんなことも言っている。

「あの戦時下の挙国一致をもって、ことごとく言論抑圧の結果と考えるのは事実に反している。利害に動かされやすい社会人だけでなく、純情で死をも辞さなかった若者たちまで、口をそろえて一種の言葉だけをとなえつづけていたのは、強いられたのでも、欺かれたのでもない。これ以外の考え方、言い方を修練する機会を与えられていなかったからだ。こういう状態が、これからも続くならば、どんな不幸な挙国一致がこれからも現れてこないものでもない」

「孤独の淋しさ」が、「一種の言葉」だけに結合した先にやってくるのは、「不幸な挙国一致」でしかない。そうであるならば、別の言葉を言えるような場が必要になる。

柳田の言葉は、SNS全盛、インターネット全盛の今だからこそ必要なヒントが詰まっている。

メディアに必要なのは、孤独の寂しさに耐えて、「一種の言葉」だけで社会が塗りつぶされないようにすることではないか。

しかし、コロナ禍にあって強まっているのは、SNSをウォッチし、なるべく直接人に会わずに済ませる取材方法だ。

メディアに携わる人たちがインターネットで取材は代替できると率先して考え、立場を固め、「一種の言葉」を作り出そうとしてはいないか。

「政治的な立場が違う人とは会わない」、あるいは会う努力をしないという人たちも少なくないが、そこからは弱いコンテンツしか生まれないだろう。

人に直接会って話を聞き、膨大な資料を読み、そして書くこと。

これらはすべてオフラインでしかできないことだ。オフラインは確かにコストがかかる。だが、コストをかけずして価値があるものは作れない。

SNSが騒がしくなればなるほど、考えることよりも先に感情が突き動かされる言葉ばかりが飛び交うようになる。喧騒から一歩引くこと。オフラインはそれを可能にする。

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