日本が世界の誇る名車として不動の評価を受けるトヨタ2000GT。その総生産台数は公式に337台、国内での現存台数は100台あまりと言われています。まさに超希少車としてマニア垂涎の的であり、価格は1億円を優に超えるものもあります。そんな名車がこれからも走り続けられるように、トヨタGAZOO(ガズー)レーシングが補強部品を復刻し、国内、海外向けに再販売すると発表しました。
写真協力/松田栄三 細谷四方洋 高木英匡
まずトヨタGAZOOレーシング(以下、TGR)ですが、トヨタグループにあるレーシングカンパニーです。トヨタのワークスチームの本丸であると同時にモータースポーツ活動の各種サポートや、そこから生みだされる車両やパーツなどの商品開発、販売、活動拠点の設置などをサポートする会社とも言えます。
今回はそのTGRが、伝説の名車であるトヨタ2000GTのために補強パーツを復刻生産するという「GRヘリテージパーツプロジェクト」を開始して注目されています。つまり「思い出のつまった愛車に末永く乗ってほしい」ということで、いくつかのパーツを再生産して純正部品として再販売する取り組みです。日本国内での現存車両は100台ほどと言われますから、決して大きなビジネスにはなりません。しかし、ヘリテッジ、つまり文化的な価値のある遺産として2000GTが今後とも元気に走ることをメーカーとしてサポートすることは大きな意義があります。単にクルマ趣味を守るためということだけではなく、文化を守る意味でもトヨタの姿勢は評価できます。
実はTGR、すでに、これまた世界的に人気のあったスポーツカー、スープラの部品復刻・再販売を発表し、多くのユーザー達から喜びの声が寄せられていました。対象となるのはA70、そしてA80と呼ばれる2世代に渡るスープラで、今回の2000GTは、それに続くプロジェクトとなるわけです。こうしたパーツの復刻や再販はビッグビジネスには直結しないのですが、メーカーとして車文化を根底でしっかりと支えているという姿勢を見せることができるため、当然のようにイメージ向上にも繋がります。
今もって人気の衰えない国産初のスーパーカーと言われるトヨタ2000GT。
今回、2000GTの用品として復刻するのはトランスミッション関係とデファレンシャル関係です。少しばかり専門的になりますが、クルマを走らせるためには必要不可欠なパーツばかりです。ベストセラーで世の中にたくさん出回ったクルマの部品なら、中古パーツでも対応可能ですが、ことが超希少車ともなると、簡単には対応できません。その点においてメーカーが再販売してくれることは何よりも助かるのです。
トヨタ2000GTの認識、どんなギャップがある?
そんな希少な存在であるトヨタ2000GTと言えば、数々の伝説に彩られた名車である事に異論を挟む人はいないはずです。その発売は1967年で、当時の販売価格は238万円でした。当時の大卒初任給が2万6千円ほどと言われていた時代ですから、現代の価値に換算すると2,000万円と言ったところでしょう。最新の日産GT-Rニスモが2,420万円ですから、同じような感覚かもしれません。いえ、当時のクルマに対する人々の感覚からすれば、今以上に特別な存在でしたから、単純な比較論は成り立たず、もっともっと高価で特別な印象があったかもしれません。
すでにデビュー当時から特別な存在だったトヨタ2000GTには、開発段階から都市伝説のようなことがいくつも噂されていました。例えばヤマハと日産が共同で開発していたスポーツカーのプランを横取りしたとか、トヨタは何もやっておらず、ヤマハに丸投げしたとか、デザインはトヨタ内部では無かったとか、まぁ何とも賑やかでした。いや過去形ではなく、今もって似たような話はまことしやかに語られることがあります。
そんな中で私は、これまで取材の関係もあって開発段階から携わっていた多くの方々と実際にお会する機会を得て、数多くのお話をお聞きしてきました。
例えば1966年に当時のトヨタのワークスチームとして発足した「チーム・トヨタ」のリーダーにして、2000GT開発テストドライバー、そしてデザインのアシスタントを務められた細谷四方洋(ほそやしほみ)さん。クラウンのエンジンブロックを元にエンジンをヤマハとの共同作業によって仕上げて行った高木英匡(たかぎ ひでまさ)さん。初期メンバーとしてテストや開発に携わられた松田栄三(まつだ えいぞう)さん。そしてボンドカーの製造に関わり、後に初代ソアラの開発主査も務められた岡田稔弘(おかだ としひろ)さんなど、2000GTプロジェクトのメンバーとして活躍された方々と、何度となくお会いしながら、数多くの貴重なお話をお聞きすることができたのです。
そうした現場に身を置き、実際に開発されてきた方々のお話を総合すると、噂のほとんどが単なる憶測と言えるものばかりと言っていいでしょう。
伝説の名車の開発エピソード
ことの始まりは4輪進出を一流のスポーツカーで成し遂げようとヤマハが考え、日産自動車との共同開発を進めたことにありました。莫大な資金が必要になる開発でしたからヤマハ単独では無理。それに2輪のメーカーでしたから日産主導の下に開発が進められたのです。そのスーパースポーツは「A550X」と呼ばれていたのですが、これは日産とヤマハ、両社の事情もあり、1964年半ばに協力体制は解消されました。
ちょうどこの時、トヨタでは世界に対して自らの技術力の象徴とするために、1台のスポーツカーを開発していました。それが後のトヨタ2000GTとなるのですが、細谷さんのお話では64年の夏頃だったから専門の部署が立ち上げられ、開発スタッフが集められたそうです。そしてエンジンの高木英匡さん、デザイナーの野崎喩さん、足回り担当の山崎進一さん、ドライバーの細谷さんが、デザイナーの野崎さんのアシスタントだけでなく、プロジェクトリーダーの河野二郎さんのドライバーやデザイナーのアシスタントなどを担当していたそうです。
そして開発が進むにつれ「この少数生産の現実離れしたスポーツカーの製造をどこに頼もうか」とか「関東自動車(現在のトヨタ自動車東日本)はどうだろうか?」などと喧々諤々やっているところでした。技術的象徴であっても少数生産車のために稼ぎ頭の大衆車のラインや人員を割くわけにはいかず、どこかに担当してもらわないといけないことになったのです。
そこに持ち上がったのが日産との関係が消滅したヤマハとの共同作業でした。スポーツカーを作りたかったヤマハと、すでに開発が終盤に入っていた2000GTの生産はもちろんのこと、仕上げに向かってのさらなる開発を進めたいという両社の思惑が一致したことによって共同開発が始まりました。なんでもその話をスタッフの皆さんが聞いたのは64年の12月だったそうです。何度も言いますが、この時点でトヨタ2000GTは、すでに全体計画図の作成や各種計算が済んでいたそうです。そしてヤマハとの正式な関係が動き出したのが開けて65年の1月。
この段階でトヨタ側はヤマハと日産の両社で進めていた日産のA550Xを見せられたそうですが、すでに基本設計を変更できる可能性などなかったわけです。世間で言われるように初期段階で影響を受け、トヨタがマネをしたという話は当てはまらないわけです。中には「共同開発が始まって以来、それほど時間を置かずに、試作車を作り上げたのは、やはり日産のマネだからこそ」と譲らない人もいて、色々な憶測へと繋がっていきました。その一方で、トヨタ側の人たちは「ヤマハさんの協力がなかったらトヨタ2000GTは世に送り出すことはできなかった」と全員が口を揃えて証言されています。つまりヤマハの協力無しでは絵に描いた餅のごとく、プロジェクトは消えていたかもしれないと、誰もが認めていますが、一方で真似や開発の丸投げなどは無かったとも明言されています。
1967年、多くのテストを重ね、1967年に市販され、日本中から注目を浴び、今もってその存在感は健在。
名車ならではの噂や憶測、そして誰もが動かすことの出来ない真実の中で開発されたトヨタ2000GTはこうしてデビューし、現在までヘリテッジとして走り続けています。そのサポートをトヨタが、正式にはTGRですが、しっかりと行うことにはやはり重要な意味があるわけです。復刻部品は通常の純正部品と同様、トヨタ販売店で購入できますが、車両のオーナーのみ、かつ車両当たり数量制限付きでの販売となります。これは部品自体にも希少性があり、一部で行われていた転売防止にも繋がります。同種のヘリテッジはある意味ボランティア的なプロジェクトになるかもしれませんが、他メーカーにも名車は存在します。こうした活動は是非とも積極的に展開して欲しいと思います。