細川忠興 「天下一気が短いと言われたイケメン武将」と美人妻ガラシャ(光秀娘)

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細川忠興とは

細川忠興

細川忠興(ほそかわ ただおき)は足利将軍家に仕えた細川藤孝の息子で、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康と戦国三英傑に仕えた武将である。

彼の人生には「本能寺の変」「秀次事件」「関ヶ原の戦い」と、大きな決断に迫られる大事件が度々訪れた。

また、明智光秀の三女、珠(細川ガラシャ)を正室に迎え、美男美女の夫婦だったという。

天下一短気な性格だったとも言われる武将・細川忠興について追っていく。

生い立ち

父・細川幽斎(藤孝)像

細川忠興(ほそかわただおき)は、室町幕府第13代将軍・足利義輝に仕えた細川藤孝の長男として、永禄6年(1563年)に京都で生まれる。

将軍・義輝の命で細川奥州家の細川輝経の養子となったが、養子縁組は形式上のものであったために、父・藤孝と共に行動していた。

永禄の変により将軍・義輝が暗殺されると、父・藤孝は義輝の弟・足利義昭の将軍就任に奔走する。

父・藤孝らは明智光秀を通じて織田信長の助力により、義昭を第15代の将軍に就任させた。

義昭と信長の対立が深まると、父・藤孝は信長に恭順し、忠興は父と共に信長の家臣となり、信長の嫡男・信忠に仕えた。

天正5年(1577年)15歳の時、紀州征伐で初陣を飾るが、この時に忠興は命を落としそうになっている。

同年10月、信貴山城の戦いで一番槍の武功を挙げて、信長から直筆の感状を賜った。
この時には投石を頭部に受けており、その傷は一生残ったという。

天正6年(1578年)元服して信忠から「忠」の字を賜り「忠興」と名乗った。

天正7年(1579年)信長の命で明智光秀の三女・珠(後の細川ガラシャ)を正室に迎えた。

珠と忠興は美男美女のカップルとして有名であり、夫婦仲もとても良かったという。

細川忠興とガラシャ像  松波庄九郎さんによる写真ACからの写真

この婚姻で明智光秀と姻戚関係になり、細川家と明智家の絆が深まった。

本能寺の変

忠興は、父・藤孝や義父・光秀と共に丹後攻めに参加して武功を挙げ、天正9年(1581年)信長の京都御馬揃えにも若年ながら参加した。この時に信長が着ていた「蜀紅の錦の小袖」は忠興が京で探して信長に献上したという。

天正10年(1582年)6月2日、義父・光秀が本能寺の変を起こし、信長が横死してしまう。

光秀の盟友であった父・藤孝には再三に渡って協力要請があったという。

当然娘婿・忠興にも協力要請があり、藤孝・忠興親子は人生最大の決断を迫られた。

父・藤孝は剃髪して幽斎玄旨(ゆうさいげんし)と号して田辺城に隠居、忠興に家督を譲って光秀の要請を断った。
忠興は「逆臣の娘」となった珠(ガラシャ)を丹波国味土野に幽閉して、光秀に味方しない姿勢を明確に表した。

当然、離縁も考えたが、もし離縁して明智家に戻しても逆臣の娘として辛いことになると忠興は熟考して、幽閉にしたという。(※ガラシャ幽閉説は史実として疑わしいとされる説もある)

光秀は頼りにしていた細川親子に断れられた上に、懇意にしていた大和の筒井順慶にも断られてしまい、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)との山崎の合戦で敗死した。

細川親子に断れたことが、光秀滅亡の最大の要因となった。

忠興と同じく光秀の婿だった津田信澄は、後に内通を疑われ討伐されてしまったが、父・藤孝が速やかに剃髪して信長への弔意を示したことで、細川家は内通の疑いが立つこともなく、父の機転の良さに忠興は感服したという。

豊臣秀次事件

家督を継いだ忠興は秀吉につき、光秀側についていた同じ足利一門の一色満信を謀殺して一色家を滅亡させ、秀吉から丹後全域の領有を許された。

そして秀吉の取り成しで正室・を細川家の大坂屋敷に移して監視した。
この頃に珠はキリシタン大名である高山右近の誘いでキリシタンとなり「ガラシャ」の洗礼名を受けた。

珠は美人であったために、女好きの秀吉に誘惑されないようにと忠興は何度も忠告していたという。

忠興は、小牧・長久手の戦い、九州平定、小田原征伐、文禄の役と参戦し、秀吉からは「羽柴姓」「豊臣姓」を賜るまで信頼を得た。

文禄4年(1595年)関白・豊臣秀次が秀吉の怒りを買い、高野山で切腹させられるという「秀次事件」が起きる。

豊臣秀次

忠興は秀次と親交があり、おまけに秀次から多額の借金もしていたために秀吉に疑われて閉門となり、あわや切腹というところまで追い込まれた。

この窮地に忠興の家臣・松井康之が奔走して人質を出し、徳川家康からお金を借りて秀吉に借金を返納し、切腹を逃れている。

関ヶ原の戦い

秀吉の没後には、忠興は武功派大名の一人として石田三成と対立し、徳川家康に接近する。

加藤清正福島正則加藤嘉明・浅野幸長・池田輝政黒田長政と共に三成襲撃事件に加わり、三成を蟄居させた。

その後、家康の推挙で丹後12万石に加えて豊後杵築6万石が加増されて、18万石となる。

慶長5年(1600年)家康と共に会津征伐に向かうが、途中で三成らが挙兵する。

忠興は豊臣恩顧の大名であり、正室・珠(ガラシャ)と父・幽斎(藤孝)が在京していたために去就が注目された。
忠興は小山評定で東軍につくことをいち早く表明したために、他の豊臣恩顧の大名たちに影響を与えたという。

大坂の屋敷に居た珠(ガラシャ)は、西軍に襲われると人質になることを拒否して屋敷に放火。自分はキリシタンなので自害が出来ず、家臣に介錯をさせて命を落とすという悲劇が起きた。

この時、屋敷には嫡男・忠隆の正室・千世がいたが、一緒に自害せず宇喜多屋敷に逃れていたことが忠興に知られると千世は離縁となり、それに反発した忠隆は後に廃嫡となった。

三成はガラシャの壮絶な最期を知り、豊臣恩顧の大名たちの奥方を人質にとる手を緩めたという。

幽斎が籠った丹後田辺城(舞鶴城)wiki(c)

父・幽斎(藤孝)と弟・幸隆は、忠興の代わりに居城の田辺城に籠城した。

少ない手勢800で、西軍の小野木重次ら率いる約1万5,000の軍を約2か月も足止めし、関ヶ原の戦いの本戦に間に合わせないという大戦果を挙げる(※田辺城の戦い

忠興は、関ヶ原の戦いの本戦では黒田長政らと共に三成の重臣・島左近らとの激戦を制して、首級136の武功を挙げた。

戦後、家康はガラシャ(珠)の最期と、忠興・幽斎親子の働きを称えて、細川家を丹後12万石から豊前33万9,000石に加増移封した。

忠興は小倉城の改修を行い、中津城から小倉城に藩庁を移して、小倉藩初代藩主となった。

大坂夏の陣

この当時、小倉藩では佐々木小次郎を剣術指南役に迎えていて、その後、小次郎は宮本武蔵との巌流島の決闘に至ったとされている。

慶長20年(1615年)大坂夏の陣でも徳川方として参戦。

敵である真田信繁(幸村)の活躍を「左衛門佐(真田信繁)、合戦場において討死、古今これなき大手柄」と絶賛したという。

元和6年(1620年)病気を理由に三男・忠利に家督を譲って隠居し、出家して「三斎宗立」と号して悠々自適な生活をした。

正保2年(1645年)12月2日、83歳で死去。

臨終の際は「皆共が忠義、戦場が恋しきぞ」と述べて、最期まで武将としての心を忘れていなかったという。

細川忠興の人物像「天下一気が短い」

父・藤孝(幽斎)と同じ教養人で、和歌・能楽・絵画にも通じていて「細川三斎茶書」という著書を残している。

茶人としては千利休に師事し、利休七哲の一人に数えられている。

合戦の際には自らが考案した実戦向きの「越中具足」という甲冑や兜を使用し、越中ふんどしなども考案したという。

越中具足の一例 wiki(c)Samuraiantiqueworld

食事や医学にも精通していて、魚の食べ方をわざわざ息子に指南している。

家臣が記した伝書には「忠興は天下一気が短い人物だ」と書かれていたという。

細川忠興の気の短さを表すエピソードはいくつか伝えられている。

本能寺の変後に、光秀側についていた一色満信を討った時に敗残兵まで皆殺しにしてしまった為、一色家に嫁いでいた妹に恨まれて後に斬りかかられ、鼻に切り傷が残ったという。また光秀にも以前「敗残兵をむやみに殺してはならぬ」と諭されていたという。

関ヶ原の戦いで父・幽斎が居城・田辺城を最終的に明け渡したことに怒って一時不仲になってしまったり、正室・珠(ガラシャ)とその待女がキリシタンになったことに激怒し、誘った待女の鼻を削いだこともある。

ガラシャに見とれていた庭師に激怒してその場で手打ちにしたこともあり、その短気な性格で家臣たちを36人も斬ったとされているが、晩年はかなり温厚になったという。

おわりに

細川忠興は父・藤孝譲りの文武両道の武将で顔も良く、正室の珠(ガラシャ)と美男美女夫婦として持て囃された。

義父である明智光秀と深い関係にあったが、本能寺の変後は父と共に細川家を守り抜いた。

最愛の妻である珠(ガラシャ)とも離縁するのが当たり前の状況だったが、結果的には離縁せずに何とか乗り切っている。

性格としては、敗残兵や家臣らを多数斬り殺してしまう短気で残虐な一面もあったが、師である千利休が秀吉に切腹を言い渡された時は、連座を恐れず面会に行く義理堅い人物でもあったという。

本能寺の変や関ヶ原の戦いなど家名存続の危機を乗り越え、足利・織田・豊臣・徳川全てに臣従し、細川家を現代にまで存続させた功績は評価に値する。