ヤクルト黄金期の不動の1番 飯田哲也氏が守り続けた広い中堅と恩師との約束

昨年7月のヤクルトOB戦に出場した飯田哲也氏【写真:荒川祐史】

「飯田シート」観戦の子供たちが刺激に…野村IDの申し子は91年から7年連続でゴールデングラブ賞を獲得

守り抜いたのは左右に広い中堅の守備だけではない。ヤクルト黄金期を支えたリードオフマン・飯田哲也氏は91年から7年連続でゴールデングラブ賞を獲得。92年は盗塁王にベストナインと輝かしい成績を残し、4度のリーグ優勝、3度の日本一に貢献した。05年に楽天に移籍するまで約10年間、神宮球場の外野指定席に「飯田シート」を設置し、自費で子供たちを招待していた。繰り出された好守や美技で夢を与え続けたが、そこには現役期間中、ずっと守り抜いたポリシーがあった。

外野席は特別な場所だった。東京・調布市で育った飯田氏は大の巨人ファン。「吉村禎章さんのファンでした」と幼少期、後楽園球場でそのプレーを目で追った。小学校2年生の時は右翼席で観戦した試合で王貞治氏の本塁打の打球がすぐ近くまで飛んできた。あの時の感動と驚きは今でも忘れない。それが名外野手誕生へのプロローグでもあった。

千葉・拓大紅陵を経て、86年ドラフト4位でヤクルトに捕手として入団。90年の4年目から二塁手へ転向し、91年から中堅手にコンバート。故・野村克也監督が俊足と強肩に目をつけた。すると、同年からなんと7年連続のゴールデングラブ賞を獲得。華麗なプレーで神宮の夜を熱くさせた。リードオフマンとして、外野の要として、ヤクルトの常勝軍団の中心にいた。

球界屈指の外野手が「飯田シート」を設置していたことを覚えているだろうか? 自身が所属していた上ノ原メンパース(現・調布メンパース)の選手をはじめ、少年野球をする子供たちを1試合につき約20席ほど自費で用意し、招待していた。

「当時、内野指定席で2、3名、招待している先輩たちを見て『自分もやりたい』と思って始めました。僕の守っている後ろで見てもらって、野球をもっと好きになってもらいたいし、『ああ、プロってすごいな』と1人でも思ってもらえればいいなと思いました」

自身が世界の王に魅了されたように……今度は自分の番だった。

初回の守備に就く時、選手はサインボールを投げていたが、飯田氏はその子供たちの座る席の近くを狙っていた。「飯田シート」で来場した子供たちにはヤクルトの帽子もプレゼント。それを約10年も続けていた。右中間が破られそうな打球をその俊足で何度もキャッチした。本塁打性の当たりも持ち前のバネでジャンプしてアウトにしてきた。背中に感じる子供たちの声援が後押しとなっていた。

拓大紅陵を全国区にした故・小枝守監督の教え「子供には夢を、大人には技と感動を」

飯田氏は恩師の言葉をずっと守ってきた。高校からプロに進む際、拓大紅陵の故・小枝守監督から「子供には夢を、大人には技と感動を」と贈られた言葉を大事にしてきた。短い言葉にはプロ野球選手としての在り方が凝縮されている。最高のパフォーマンスで子供に夢を与え、大人の野球ファンには感動を呼ぶ高度なプレーを見せないといけないという意味だ。それがプロ野球の世界なんだとも教わった。

夢を与えながら、技術を磨いた。外野守備ではフェンスをよじ登り、大きな当たりを捕球すると、敵味方かかわらず、大きな声援が送られていた。「(ジャンプ捕球の)練習はしていましたよ。でも、フェンスに登る時は本能で、着地のこととかそこまで考えていませんでした。今はもう……できませんよ」と笑うが、当時は真剣に準備をしていた。周りから、嘲笑されても「子供たちにホームランボ―ルを取るところを見せたい」とポリシーを貫き、己を磨いた。その努力は数々のスーパープレーとなって、多くの野球ファンの心に刻まれた。

06年で現役を引退した後は07年から13年までヤクルト、15年から昨年までソフトバンクで外野守備走塁コーチなどを努めた。今年は解説者、母校・拓大紅陵の非常勤コーチとして活動をしていく。“技の伝道師”として、また新たな野球の魅力を伝えていく。(楢崎豊 / Yutaka Narasaki)

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