「これが人生を変えました」 NPB通算464発ローズ氏が明かす打撃フォームの進化

近鉄、巨人、オリックスで活躍したタフィー・ローズ氏【画像:パーソル パ・リーグTV】

近鉄時代の監督・梨田氏は「本当に素晴らしい指導者でした」

過去4回にわたって連載してきた外国人OB選手インタビュ―。第5回はNPB史上最もインパクトを残した外国人選手と言っても過言ではないOB、タフィ・ロ―ズ氏のインタビューをお届けする。まずは前編。

1996年に来日し、13年間のNPB生活で残した本塁打数464本は、今なお外国人選手として歴代1位。4度の本塁打王を獲得し、外国人選手では初となる1000打点の記録を達成(通算1269打点)、そしてNPB歴代最多となる14回の退場処分と、まさに記録にも記憶にも残る選手だった。

――現在はどちらで暮らしていて、何を?

「現在はオハイオ州・シンシナティとアリゾナに住んでいます。今は何もしていないですよ(笑)」

――日本にいる多くのファンは本塁打のイメ―ジが強い。近鉄での最初の3年間は2桁盗塁と20本塁打以上をマ―ク。4年目のシ―ズンでは一気に40本のホームランを記録した。

「トレーニングをして身体を大きくしたのです。より強くなるために。そして、多くの和牛を食べたからですかね。神戸牛とか。最高ですよね、ハハハハ! やはり、年を重ねるにつれ身体を大きく、そして強くしていったからだと思います」

――2000年から2003年まで梨田昌孝監督(当時)の元でプレー。そして2001年にはリーグ優勝を経験した。

「佐々木(恭介)さんが最初の監督でしたね。そして梨田さんですが、彼は理解力に富み、本当に素晴らしい指導者でした。彼は選手一人一人を本当によく気にかけてくれていました。彼はとても勤勉で、そして忍耐強かったと思います。選手に余計なプレッシャーをかけず、我々選手たちはいい環境でプレーすることができました」

――梨田氏は新型コロナウイルスに罹り、一時危険な状態だった

「梨田さんは私が所属していたチームの偉大な監督です。彼の元でプレーするのが大好きでした。現在は回復されているということで本当に良かったです」

あのバッティングフォ―ムはどう生まれたか?

――ホームランに加えて、高打率を残せた理由は?

「まず第一に、私はアベレージヒッターであろうとしていました。それに加えて強く、高打率を残せてホームランを打てるよう意識していました。2ボール2ストライクまでは、スイングをコンパクトにし、アベレージヒッターとして、ボールへのコンタクトを意識していましたね。経験を重ねて日本にいる多くの投手と対戦していくにつれて、大きなスイングでホームランを狙うようになりました。ホームランを狙う時、そして安打を狙う時とを分けていた感じです」

――バットを大きく揺らすフォームへはどうやって行き着いたのか?

「以前はグリップの手と身体が近すぎたので、意識的に体から離すようにしたのです。その結果、内側へのストレートを打てるようになり、強くボ―ルを打てるようになりました。なので、理由としては、体からグリップを離し内側のストレートに対応するためですかね。これが人生を変えましたよ」

――NPBで1269打点、464本塁打を記録し、外国人選手歴代最多のホームラン数だ。

「日本では素晴らしいキャリアを過ごせたと思っています。とても幸せなことです。ただ、一つ心残りがあったとするならば、どうしても日本一になりたかったです。日本でのキャリアは最高でしたが、日本シリーズで勝ちたかったです」

――2001年の優勝の瞬間はとてもドラマチックだった。北川博敏氏の代打逆転サヨナラ満塁ホ―ムランは多くのファンの記憶に残っている。

「あの試合は、私がファーストゴロで1アウトになり、そしてノリ(中村紀洋氏)もアウトになり、そのあとたしか、磯部、水口、吉岡が塁に出たんです*。私とノリはベンチにいたのですが、北川がホ―ムランを打った瞬間『なんて最高なんだ!』と思いましたね。信じられませんでした。本当に最高の瞬間でした」

*編集部注:正しくは、吉岡雄二氏、川口憲史氏、益田大介氏

――その時の記憶があまりにも強すぎた、日本一も経験しているかと……

「日本一には本当になりたかったです。日本でのキャリアは本当に素晴らしいものでした。退場行為も多かったですが(笑)。本当に私は勝利を求めていたんです。勝利のためにはなんでもするつもりでいました。アメリカではあまりこういう表現はないかと思うのですが、なんとかしたいと思っていました。勝つ、勝つ、勝つ、その思いを強く持っていました」

――退場も多かった、審判とよく言い合う場面もあった

「う~んと、まぁすべてが完璧な人なんていないですよね。でも、当時は私の考えているストライクゾーンとちょっと違うかなと思ったことはありました。彼らは私の背が高いと思っていたようですが、私の身長は182センチで、そんなに高くはありません、普通のサイズですよ。ハハハハ!

勝利に貢献できるようにと私は常に思っていました。その思いが強すぎて、時には退場に繋がってしまいました。ただチ―ムメイトは理解してくれていました、私が常に全力でプレ―していることをね」(「パ・リーグ インサイト」海老原悠)

(記事提供:パ・リーグ インサイト)

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