浅野本家の養子・長恒が構えた貴重な陣屋 西播磨歴史絵巻(15)「『中国行程記』から(4)若狭野に陣屋」

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兵庫県西播磨の山城への探求に加え、周辺の名所・旧跡を併せるとともに、古代から中世を経て江戸時代、近代にかけて、西播磨で名を挙げた人物についても掘り下げていくラジオ番組『山崎整の西播磨歴史絵巻』。第15回のテーマは「『中国行程記』から(4)若狭野に陣屋」です。

相生市若狭野にある旗本・浅野氏の陣屋については、萩藩の絵図『中国行程記』にも触れられています。やはり西国街道の目印になっていたのでしょう。赤穂市有年の宿場から東へ三田川に架かる長さ2間(3.6メートル)の土橋を渡り、若狭野村に入ります。『行程記』には、街道に沿って矢野川が描かれ、その北側にある高札にも目を留めています。高札は普通、藩の法度や掟などを掲げますが、こちらの物は「地方札」で、付近だけに限定した通知だと説明しています。

陣屋を設けたのは、赤穂藩家老・大石良雄の大叔父、「祖父の弟の長男」、つまり「父の従弟」に当たる長恒で、1671年のことでした。大石長恒の母が赤穂藩主・浅野長直の娘だったため、長恒が浅野本家の養子となり、若狭野12か村3000石を分知されて、旗本・浅野長恒として陣屋を構えました。

この陣屋は、若狭野公民館の西、須賀神社の参道入り口近くに今もあって、領内だけで使える「旗本札」を印刷していた「札座」の建物「法界庵」が残り、陣屋門は相生駅の東側にある西法寺に移築されています。江戸期の小ぶりの旗本陣屋は、全国的にもほとんど残っていないため、敷地がそのままの若狭野陣屋は貴重です。現状は崩壊寸前ですが、3000石の旗本宅としては立派で、もともとは約1600平方メートルの敷地に6部屋を持つ本宅をはじめ、内庭や門・倉庫・馬屋・武器庫などがありました。

若狭野・浅野家は、忠臣蔵で有名な赤穂事件以後、本家に連座して「遠慮」を申し付けられ、伊勢・山田奉行を辞任に追い込まれますが、事件のほとぼりが冷めると、再び幕府の上級役人となり、数々の役職を歴任していきます。一方で、赤穂藩主・浅野長矩と義士らの復権を嘆願し、懸命に名誉回復を図ろうと努めました。

この若狭野陣屋は、領内に19か条から成る「陣屋定目」を制定しています。公儀つまり幕府のご法度を守ること、年貢をきっちり納めること、官有林である御林を大切にすることなどを厳しく命じています。

相生市若狭野町八洞にあった奥山村では、鎌倉末期に岡豊前守が居城としたことから岡城とも呼ばれる下土井城にも言及し、「櫓や石垣が残っている」と記しています。ただ、岡を「岡野」としたり、八洞の「洞」の字を大統領の「統」を当てたりと、現代の基準に照らすと、いい加減なところも垣間見えますが、「発音が合っていればよし」とする江戸期の暗黙のルール通りですので、騒ぎ立てるほどのことではありません。

(文・構成=神戸学院大学客員教授 山崎 整)

※ラジオ関西『山崎整の西播磨歴史絵巻』2020年7月14日放送回より