バブルの寵児は憧れた正義の味方に 河合弘之弁護士ロングインタビュー

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おもしろいこと、派手なことが好きで、目立ちたがり屋。弁護士・河合弘之氏は 自らをそう評する。「ダグラス・グラマン事件」「平和相互銀行事件」「イトマン・慶屋事件」「つぼ八事件」「国際航業事件」「秀和・忠実屋・いなげや事件」ーバブル期に話題となった多くの経済事件に河合氏は弁護士としてかかわってきた。誰も自分には太刀打ちできない。河合氏は得意の絶頂にいた。しかし、ふと立ち止まった時に自問した。「これだけでいいのだろうか」。目指すべき弁護士像を胸に、脱原発の闘いへ飛び込むことを決意した。自らの信念に従い、勝つことにこだわり続ける河合氏にこれまでの半生を伺った。

取材・文/臼井友恵 Interview&Text by Tomoe Usui

さくら共同法律事務所 弁護士 河合弘之氏 Hiroyuki Kawai
(弁護士ドットコムタイムズ<旧・月刊弁護士ドットコム>Vol.13より)

ノンポリ学生の負い目 学生運動家に支援の手を

「弁護士のように専門性があって独立性の高い仕事というのは、信念にしたがって何だってできるんだよね」

弁護士と映画監督という異色の肩書きを持つ河合弘之氏。近年は、脱原発に関する訴訟、映画制作、講演などに奔走している。

「今の僕の行動原理は、日本の脱原発に役立つか、役立たないか、それだけなの。その手段として、裁判もする、映画もつくる、講演もする」

日本中が湧いたバブル期にビジネス弁護士として成功を収め、大金を手にした。それでも常に世の中の役に立つ何かをしなくては、という焦りがあった。

「正義の味方"月光仮面"みたいな弁護士になりたかったんだ」

その思いのルーツは、生い立ちにある。

河合氏は、1944年4月18日、満州国(現・中国東北地方)吉林省・長春で生まれた。父・淳次が満州に渡ったのは1935年。満電(満州電業)の総裁か、官僚トップを目指してのことだった。

「後年、父はそのころを振り返って『人生でいちばん働いて、一番豊かな時代だった』と言っていたね」

しかし、河合氏が生まれて1年後の1945年8月15日、太平洋戦争が終結した。

「帰るなら、みんなまとまって帰った方が安全だ」

帰国計画が遅れる中、在留日本人はロシア人を恐れて社宅の中でひっそりとしていた。雨戸を閉めて、陽の当たらないところでじっとしていたため、河合氏はくる病(乳幼児の骨格異常で脊椎や四肢骨の湾曲や変形がおこる病)になってしまった。

「敗戦から1年後、ようやく帰国がかなったんだけど、その引き揚げ船の中で、弟の信之は栄養失調で亡くなったんだ。僕たちはなんとか父の実家のある兵庫県篠山にたどり着いたんだけど、僕はひどい栄養失調だった。あと一日遅かったら死んでいたかもしれないって言われていたみたい」

こうした運命の分かれ道が本人の知らないところにあって、幸運がなければ無事に日本に帰ってくることはできなかった。

「弁護士という"正義の味方"になれる道を選んだのは、こうした体験の影響が大きかったんだと思う」

その後すっかり健康になった河合氏は、東京大学では卓球の選手でエース。昼は部活に打ち込み、夜は麻雀に明け暮れた。

「学生時代は、卓球と麻雀と司法試験の勉強しかしてないね(笑)。完全にノンポリ学生だった。でも、それがあとで自分の良心にチクチク刺さってね」

時は学生運動の最盛期である1960年代。河合氏は、学生時代に何も行動しなかった自分にうしろめたさを感じていた。

「僕は今まで何にもしてこなかったから、せめて弁護士として社会の変革のために闘う若者の味方になろうと思ったんだよね」

最初に入所したのは、国鉄労働組合などの顧問弁護を担っていた虎ノ門法律事務所。のちに最高裁判事となる大野正男氏のもとで弁護士人生をスタートさせた。

「人権にかかわる事件も経済事件もきちんとやる、当時としては非常に先進的な事務所だったから、僕のやりたいことに近いと思って入れてもらった。 そこでは特に学生運動の救援活動を多くやった。逮捕者に対する救援と、刑事事件になった時の弁護人。逮捕者それぞれの留置所に行って『がんばれ、完黙だぞ!』とやるわけ。それで、ろくに打ち合わせもせずに次へ飛んでいく。

そんなことを毎日やっていたら、1年くらい経ったころボスに呼び出されて『君はちっとも事務所にいないけれども、イソ弁というのはボス弁が用事のある時にすぐにそこにいないといけない。Useful at handじゃないといけないんだ』と怒られてしまってね。反省はしたけれど、そのあともやっぱり飛び回っていた。これじゃいけないなという気持ちはあったんだけどね。

一方で、そのころちょうど学生運動や新左翼の弁護にはこれ以上展望が見込めないとも思い始めていた。中核派、革マル派、ブント……僕にはどこがどう違うのかもよく分からないのに、殺し合いみたいなことをしている。『もう、やめた!』となったんだ。だから、今度はビジネス弁護士になろうと思ったんだよね。その方がおもしろそうだし、儲かりそうだし」

やると決めたらすぐに動ける。弁護士とは本当に「自由」だ。河合氏は新たな世界へと身を投じていった。

人権派から一転、バブル紳士の守護神誕生

ホテルニュージャパンの横井英樹氏、仕手集団率いる小谷光浩氏、大阪の総合商社・伊藤万、東京の不動産会社・秀和……バブル期に話題となった数々の企業や著名人の顧問弁護士として河合氏は活躍してきた。

「超一流の大企業なんて、そんなに事件を起こさないんだよ。逆に、その少し下のクラスになると問題がいっぱい起きる。それで、解決していくと同じくらいの企業の間に評判が伝わっていく。『河合は大きくて難しい問題も平気でやって、勝ってくれる、強いぞ』と。超一流じゃなくて、その少し下に浸透していくんだよね。

超一流の大企業を扱いたい人たちは、あぶない事件や小さい事件は断ってしまう。でも、僕はそういうことに頓着せずに受けていった。あんまり深慮遠謀がないから、おもしろそうだと思ったらすぐに食いついちゃうんだよね。そうしたら依頼者が別の依頼者を連れてきて、またおもしろそうだから食いつく。そうやって超一流会社がどんどん遠ざかっていったんだよ(笑)」

その中でも、河合氏にとって忘れられない事件がある。平和相互銀行を設立した小宮山一族と、当時の経営陣との内紛だ。小宮山氏のファミリー企業が平和相互銀行から123億円の融資を受け、平和相互銀行の経営陣から会社整理の申し立てを受けたというものだ。経営陣の狙いは、小宮山家の取りつぶしだった。困り果てた小宮山氏は川崎定徳・佐藤茂社長に助けを求め、佐藤氏からイトマン・河村良彦社長へ、そしてイトマンの顧問弁護士だった河合氏のところに話がやってきた。

「小宮山氏のファミリー企業は、貸借対照表上では債務超過だったんだけど、優良な不動産資産が大量にあったから含み益を計算すると資金は潤沢だった。ただ、とにかく時間がなかったんだ。明日までになんとかしなくては担保の平和相互銀行の株が売却されてしまうという状況だった。

ベテランの弁護士たちは、不服申し立てから執行停止を……と議論していたんだけど、法的手続きをふんでいる時間はなかったんだよね。そこで僕が『123億円さっさと返してしまいましょう!』と言ったの。相手の弱みは、目的は一族をつぶすことなのにそれを隠して申し立てをしていること。こちらの強みは、豊富な資金力。相手の一番弱いところにこちらの一番強いところをぶち込んでやるのが一番効果的なんだ」

利子を入れて127億円。この大金を河村氏はなんと即日用意した。イトマンは住友銀行系の企業だ。小宮山氏は金を用意したイトマンと住友銀行に恩義を感じ、いずれ住友銀行は平和相互銀行を手に入れやすくなるだろう。貸金は担保となっている不動産の含み益があれば確実に返済される。これを河合は瞬時に計算した。この奇策によって、見事に小宮山一族が防衛された。

平和相互銀行経営陣の思惑は失敗に終わったが、双方の争いは泥沼化していった。その後、数々の不正融資に発展し不正経理が横行した。それらが発覚し、経営陣4名とともに平和相互銀行の顧問であった"ヤメ検"伊坂重昭氏が特別背任罪で逮捕され、のちに獄死した。

「あとになってから、伊坂さんの弁護を担当した弁護士が僕に言ったんだ。『河合さん、今だから言うけどいい腕してるよな。伊坂は最期まで河合にやられた、河合にやられた、って言って死んでいったよ』って。

あぁ、そうかと。まさに私は彼の人生を絶頂から奈落の底に叩き落としたわけだよ。僕は自分のやったことを悪いことだとは思わないけど、そういうことがあるんだなと。もちろん、弁護士は奈落の底に転げ落ちそうな人を救いだして生き返らせることもできる。いい意味でも悪い意味でも、いろんな人の人生を変えてしまうんだ。それはおもしろいんだけど、おもしろ半分でやっちゃいけないなって、最近とみに思うね」

バブル時代のビジネス事件は、河合氏にとって"ゲーム"のようだった。相手の弱点をついて勝つと、大金が手に入る。

「スパッと勝つコツは、ディテールにこだわらないこと。本質をつかんで、敵の強みと弱みを見て、それに合った骨太の作戦をとるのが基本的な戦略だよね。それには、ある程度の大胆さと勇気が必要なんだ」

しかし、その大胆さが弁護士会の目にとまってしまった。

あるM&Aの案件だった。赤字経営で債務超過に陥っている会社があった。そこは一流ホテルに約200坪の賃借権を持っていた。一方で、資金はあるが名誉や地位を持っていない会社があった。河合氏は、後者に前者を一流ホテルの賃借権ごと2億円で売却した。河合氏は両者から感謝され、それぞれから2,000万円と5,000万円、計7,000万円の報酬を得た。それが2年後に表沙汰となり、3ヵ月間の業務停止となってしまった。

「当時、僕は何も悪いことはしてないと思っていた。こんなマッチングは僕にしかできない芸当だと思っていたし、M&Aでは銀行も不動産屋も両者からもらうのは当然なのに、なぜ弁護士だけだめなのかと。弁護士会の言い分としては、すべての案件は紛争の可能性を持っているということだったけど、理解できなかった。でも、今にして思うとやっぱり反省すべき点はあって、無用心だったなと。当時は得意の絶頂で、驕っていたからね。

ただ、こうしたバブル期のビジネス事件はおもしろいから一生懸命やっていたんだけど、一方で、弁護士として実績を上げれば、弁護士の腕によって結果が大きく変わるものなんだと知ってほしかった。そうすれば、弁護士に対する社会の評価が変わると思ってたんだ。日本社会は、弁護士の腕の違いは関係ないと思っている人が多いんだよね。裁判は、自動販売機みたいに事件の要件事実さえ入れれば、結果が同じように出てくると思っている。弁護士によって結果が違うのは正義に反すると思われているんだ。

でもそうじゃない。弁護士の腕によって結果が変わるということは、弁護士業界の活性化につながって、弁護士需要が増える。そうやって、そのために自分はがんばっているんだって正当化していたんだ。ほかの弁護士も同様に評価してくれていると思っていたんだけど、そうではなかったみたい。懲戒の時も、味方してくれる人はほとんどいなかったからね」

いざ、脱原発へ新たな闘いのステージ

それでも、河合氏が歩を緩めることはなかった。ビジネス弁護士としては成功を収めたが、それは目指している"正義の味方"ではないように思えた。

「文字通りバブル経済の泡をパクパク食べている感じ。それはそれでおいしくて楽しいけど、これだけでいいのかなって。僕は正義の味方になるために弁護士になったわけだからさ。世の中のために何かやんなきゃいけないというのはずっとあったんだよ」

公益活動をまったくしてこなかったわけではない。たとえば、1980年代から中国残留孤児の戸籍取得に携わり、約25年かけて1,250人の国籍を取得した。しかし、こうした活動は人類にとって普遍的なことではないのではないかと感じていた。

「もっと本質的なことに直接かかわりたかったんだ。 まずは、美しく安全な地球を後世に残すこと。これが人間にとって一番大事なことだと。じゃあ、環境問題の中でもっとも深刻で直接的な問題は何かというと、原発問題だと考えたわけ。そういうふうにずっと頭で考えていった。何か目に見えたことに動かされたわけではなく。だから僕の原発問題への意識はすごく観念的なんだよね」

河合氏が原発問題を意識し始めて間もなく、河合氏が顧問をしていたある企業経営者が事務所を訪れた。

「高木仁三郎さんという核化学者のことを昔から知っているという人だった。高木さんのことをすごく尊敬していて、脱原発の活動を応援したいからカンパを渡したいと。でも、その人は高木さんと学生時代に内ゲバをやりあった相手だった。直接は会えないので、河合さんからお金を渡してきてくれないかって言うわけ。

それで高木さんに2〜3回に分けてお金を渡したの。合計で2,000万円くらい。そうしたら高木さんが『これ、河合さんのお金じゃない?』って言うわけ。それは本当に違うんだけど、その時には僕も高木さんのことを心から尊敬するようになっていたんだよね。だから弟子入りさせてほしいとお願いした。高木さんは『いいよ。だけど、また一人苦しい闘いに引っ張り込んじゃったなぁ』って、ぼそっと言ったんだよ。それからだね、ずっと入っていったのは」

本格的に脱原発の闘いに取り組み始めた河合氏だったが、間もなく敵が想像以上に手強い相手だと知る。

「たとえば、ほかの公害訴訟の場合はいろいろあるけど勝っているんだよ。うまくやってがんばれば勝てる。でも、原発の場合は"原子力ムラ"という強大な組織が厳然としてそこにあって、日本社会の政治、経済、文化、教育、メディアの大半を抑えている。本当に強固なんだよ。脱原発を闘うということは、権力だけじゃなく民間企業も含めて日本社会の強力な部分を全部敵に回すことなんだってわかったね」

高木氏を通じて、弁護士・海渡雄一氏(東京共同法律事務所)と巡り会い、2人はコンビとして活動を始めた。

「海渡と一緒に闘って、15年くらい負け続けたんだよ。それでテンションが相当下がっちゃって。年も60代後半だし、もう疲れたな、若い人たちにファンドでも残してフェードアウトしようかな、なんて思い始めていた。そんな時に、3.11が起きたんだよ。ああ、これはもう逃げちゃいけないんだ。たとえ一人でも突っ込むしかないと思ったね。でも、そこで『おおい、脱原発弁護士、もう一度団結してがんばろう!』と呼びかけたら、同じように考えていた弁護士が300人くらい集まったんだよ。ちょうどみんなそれぞれの街で負けて、心が折れかけてる時期だったんだな」

2011年7月10日、河合氏と海渡氏を中心に脱原発弁護団全国連絡会が結成された。

すべての原発訴訟の争点は、7〜8割が共通していると河合氏は言う。各論は残りの2〜3割。そこで、全国連絡会では裁判書類や証拠資料を一元化して集約し、全国の弁護団が共有できるように整理した。そのほかの情報もメーリングリストで共有し、知識や知見の蓄積を進め、闘い方を磨き上げていった。

「相手はもともと電気事業連合会でつながっていて、弁護士も共通しているプロ集団。こっちは市民事件で稼いで生活して、片手間で原発事件をがんばっている弁護士ばかり。これではだめだってことで、去年、脱原発専従弁護士を募集したの。今は、2名で一日中脱原発をやっている。彼らには日本中の脱原発弁護士から調査や書面作成の依頼がくるんだ。そうやってプロ化することで、最近は勝つこともできるようになってきたんだよ」  

本気で闘い、本気で勝つ同志の存在が推進力

「これからはとにかく裁判と世論。今のところ、裁判は原発の立地している隣の県で仮処分を求めるのが一番確率が高いと結論づけることができた。世論を動かすためには、映画の制作を続けているんだ。ビジュアルに訴えるのがもっとも手っ取り早いからね」

2年前に公開された映画の第1弾は、1,500回の自主上映、8万人以上の観客動員、制作費4,600万円に対して収入が4,700万円に至った。

「儲けることなんて考えてなかったんだけどね(笑)。好評だったから、昨年第2弾も公開した。これらの映画は、日本の原発問題の"鳥瞰図"なんだ。今、自分はここにいるから、脱原発のためにこんなことができるんだと勇気がわいてくる。だからみんなよく見てくれるわけ」

今は、これまでに儲かった資金をすべて投じて第3弾を制作している。世界中を回ってフィルムを撮り終え、年末までに公開予定だ。

「第3弾では、これまでの活動の出口となる『自然エネルギー』について。日本人の多くは自然エネルギーが頼りにならないと思っている。だから、自然エネルギーは儲かる、日本の電力をまかなえると思ってもらわないと変わらないんだ。それをわかってもらえるような映画にしようと考えているんだ。

今の脱原発派は、人権派と左翼と環境派だけ。これではいつまでたってもマイノリティーのままなんだよ。そのために保守層を引っ張りこまなきゃいけない。僕はずっとビジネス弁護士として保守層と付き合ってきたから、そういう人たちの考えがわかる。良心的な保守層が脱原発を支持してくれないと、脱原発は実現できないから。映画はそっちに働きかけるものでもあるんだよね」

短期的には仮処分で運転を止めて、中長期的には自然エネルギーに切り替えていく。自然にそうなる社会をつくっていこう、安全で豊かで楽しい社会にしようというのが、河合氏のメッセージだ。

「僕の信条は『本気ですれば大抵のことができる。本気ですれば何でも面白い。本気でしていると誰かが助けてくれる』。この3番目が特に好きなの。不思議なことに、本当にそうなんだよね。脱原発も、中国人残留孤児の国籍取得も、高木仁三郎市民科学基金も、全部本気でやってきたから、困った時にはいつも誰かが助けてくれた。そういう人が必ず社会の片隅にいて、一生懸命やっていると、そういう人に出会うわけ。でも半端な本気じゃだめなんだな。『河合さん本気なんだ、じゃあこれやらせて』って。そんな人に巡り合えた時、この仕事やってて本当によかったなと思うんだよ」

誰かが助けてくれるということは、世の中のどこかに自分と同じ信念を持って本気で取り組んでいる人がいるということ。その存在は、大きな力になる。

「やっぱり、世の中で一番大事なことにかかわって、それに貢献できる仕事をしなくちゃいけない。その信念があれば、弁護士は何だってできるんだよ。学生運動の救援活動、ビジネス弁護士、脱原発活動、映画監督、立場はどれも違っているように見えるけど、どれも弁護士の仕事なんだよね。

もう一つ大切なのが、『闘う心』。どんなに能力があっても、勝てない理由を100個も言えちゃうような人はだめ。少々頭が悪くても、なんとかしよう、勝とうと心からがんばる人であってほしい。そうやって一生懸命、本気でやっていれば、必ず誰かが助けてくれるから」

勝つことにこだわり、いつも本気で事件と向き合ってきた河合氏。この国の原発をすべて止めるまで、河合氏の闘いは続いていく。 Profile河合弘之氏
1968年東大卒。1967年在学中に司法試験合格、1970年弁護士登録、虎の門法律事務所入所。1972年河合・竹内法律事務所開設。1977年、USAダラスのインターナショナル・アンド・コンパラティブ・ロー・センター短期留学。1979年河合・竹内・西村法律事務所に、1991年さくら共同法律事務所に改称。「原発訴訟が社会を変える」(河合弘之著)、「逆襲弁護士河合弘之」(大下英治著)、「脱原発」(河合弘之・大下英治共著)など著書、関連書籍多数。