日本移民と感染症との戦い=世界最大の日本人無医村で(15)=結核の妻想い作ったヒット曲

©Nikkey Shimbun

脇山一郎(『コロニア芸能史』より)

脇山一郎(『コロニア芸能史』より)

 戦前戦中、当時最大級の日本人集団地だったバストスから、感染症による悲話が生まれている。
 終戦直後に起きた勝ち負け抗争の犠牲者の一人、脇山甚作退役陸軍大佐の息子一郎の妻・初野だ。彼女は大戦中に結核に罹り、1943年からカンポスで療養をはじめ、それを再々見舞う生活の中で、夫・一郎は歌曲「高原の花」を作詞・作曲した。
 一郎は、1937年にバストス楽団という日系初のジャズバンドを結成した。さらに日米開戦直前、41年9月7日にブラジル独立記念日の記念行事として、移住地を挙げて歌劇「浦島」に取り組んで成功させた。当時のコロニア文化人を代表するような人物だ。その3カ月後に真珠湾攻撃がおき、戦前最後のコロニア音楽行事となった。
 冷たい風が吹きすさぶ高原にひっそりと咲くスミレの花にあやかって、妻を想う気持ちを託したこの曲は独特の陰影と叙情に包まれている。療養の甲斐なく終戦直後の8月17日、初野は日本の勝利を信じながら結核が悪化して他界した。

「高原の花」第1回吹込みが行われた1946年6月2日の様子(『コロニア芸能史』より)

「高原の花」第1回吹込みが行われた1946年6月2日の様子(『コロニア芸能史』より)

 その父・脇山甚作は1946年6月2日、陸軍大佐という立場から、日本敗戦を容認した裏切り者として勝ち組の強硬派に殺された。だが、アメリカ音楽を愛するモダンな息子を許す父親でもあった。
 一郎がカンポスの初野を見舞うのに、バストスからでは遠すぎることから、戦中から脇山家はサンパウロ市サウデ区に移り住んでいた。初野が入所していた肺結核療養所「サンフランシスコ・シャビエル療養所」は、前節にある経緯から同仁会が36年に開設した。
 勝ち負け抗争の混乱の中で人心は乱れた。そんな殺伐とした時勢に、少しでも生活に潤いを提供しようと、竹内秀一(元日伯新聞総支配人)は日本の歌謡曲のレコード制作を企画し、一郎の下に持ち込んだ。
 「内紛で暗いコロニアに明るい新風を入れるには、コロニア唯一の娯楽である歌謡曲のレコードを売り出すことである」(『コロニア芸能史』137頁)と考えたのだ。
 日本との国交が絶えていた時代なので、初めてのコロニア国産レコードだった。当初不可能だと思った一郎は一旦断ったが、最終的には引き受けた。
 仲間を総動員して試行錯誤を繰り返し、ちょうど1946年6月2日に第1回目のレコード録音を行った。「コロニアの音楽人の協力によって歌謡曲のレコードが誕生した画期的な瞬間だった」(同137頁)。
 しかし、奇しくもその晩、脇山家に4人の勝ち組強硬派の青年が訪れ、父・脇山大佐を殺害した。妻、父を立て続けに喪った一郎は、以来全てを忘れようとするがごとく音楽活動に没入。歌曲『高原の花』は異例の大ヒットとなった。
 荒んだ世情を潤すヒット・メロディーとして愛され、コロニアを代表する愛唱曲になった。だが一郎も50年6月に自動車事故で他界。行年40歳の若さ、まるで生き急いだような生涯だった。
    ☆
 14世紀に欧州人口の3人に1人を殺すほど猛威を振るったペストは、欧州文化に深い傷跡と文化的痕跡を残した。アルベール・カミュの小説『ペスト』(1947年)は特に有名で、今回の新型コロナでもベストセラーになった。
 それ以外にも中世イタリア・フィレンツェの散文作家、ジョヴァンニ・ボッカッチョによる物語集『デカメロン』(1353年頃)も。1348年に大流行したペストから逃れるためフィレンツェ郊外に引きこもった男3人、女7人の10人が退屈しのぎの話をする話だ。ユーモアと艶笑に満ちた恋愛話や失敗談で、イタリア散文芸術の始まりとも言われる。
 シェイクスピア「ロミオとジュリエット」(1595年頃)の時代背景も、イタリアのペスト大流行だ。仮死状態になったジュリエットの手紙をロミオに運ぶ役割をゆだねられた修道士は、道中に乞われて病人のもとに立ち寄るが、その病人がペストであることが判明して町は大騒ぎになる。
 今回の新型コロナの後も、きっと現代版のコロナ文学が生まれるのだろう。(つづく、深沢正雪記者)

「高原の花」(1946年 作詞作曲 脇山一郎歌)
★リンク(http://www.brasiliminbunko.com.br/Obras/139.mp3