【未公開写真】佐世保空襲 終戦直後に米軍カメラマンが撮影

【焼け跡生々しく 】佐世保市役所付近から石坂町方面を撮った写真。空襲による焼け跡が生々しい。奥の家々は被害を免れている。中央付近には米軍人の姿も見える

 佐世保空襲(1945年6月28~29日)で焼け野原となった街の姿を、終戦直後に米国の従軍カメラマンが撮影していた。カメラマンの遺族から写真データの提供を受けた市教委を通じて、本紙が入手した未公開写真を紹介する。
 撮影者は、米国人で元米海兵隊カメラマンのクラウド・ポーさん。96年に79歳で死去した。
 ポーさんの孫で英会話教師のスコット・ハインリさん(41)=鹿児島県在住=によると、2001年、ハインリさんの母親が、米コロラド州のポーさんの自宅で大量の写真が入った木箱を発見。05年にハインリさんが約150枚の写真やネガを確認した。
 写真には、空襲を受けた佐世保市の様子や、大村、熊本、鹿児島などの街並みが写っていた。
 17年1月、佐世保市教委は、ハインリさんから写真データの提供を受け、検証作業を進めている。「終戦直後の未公開のフィルムで貴重なもの」と担当者。ハインリさんも写真の撮影場所などを調べていて、「祖父が撮影した場所で自分も写真を撮り、昔と今の街の様子を比較する写真集をつくりたい」と話した。
 本紙は、市教委を通じて写真データを入手。市教委によると、いずれも終戦直後の1945年9月ごろに撮影したものとみられる。

【米軍の装甲車】旧日本海軍の通信機器を破壊する米軍の装甲車。当時、佐世保市干尽町に通信機器を格納する倉庫があった
子どもたちに話し掛けるポーさん。1945年10~12月に佐賀県伊万里市で撮影されたとみられる
【砲弾を投棄】佐世保市の干尽岸壁で旧日本海軍の砲弾を船に入れ、海中に投棄しようとしている人々
現在の佐世保市水道局周辺の光景。市バスに乗車するため、人々が長蛇の列をつくっているとみられる。中央に亀山八幡宮の鳥居が見える
日本人の子どもたちと触れ合う米兵。撮影場所は平瀬町にあった旧日本海軍の「下士官兵集会所」。終戦後、米軍に接収され司令部が置かれた

© 株式会社長崎新聞社