岡崎慎司、国境を超えて尊敬される理由とは? 34歳も愚直に守り続ける中学時代の教え

スペインに活躍の舞台を求めた岡崎慎司は、1年目から大きな仕事を成し遂げた。所属するウエスカでチーム最多の12ゴールをあげ、2部優勝、そして1年での1部復帰に導いた。波乱から始まったスペイン挑戦を最高の笑顔で終わらせることができたのは、あのころの教えを、34歳になったいまも変わらず守り続けているからだ。国境と文化を超えてリスペクトされる男が決して忘れることのない、ストライカーの矜持(きょうじ)とは――。

(文=藤江直人、写真=Getty Images)

スペイン現地でも絶賛される岡崎慎司、ウエスカを1部昇格・2部優勝に導く

まるでドラマや映画のように波瀾万丈に富み、そこかしこに喜怒哀楽が散りばめられ、続編への夢と期待を残すハッピーエンドで幕を閉じる。ピレネー山脈を国境としてフランスと接する人口5万人あまりの町、ウエスカで岡崎慎司が紡いだストーリーに興奮と感動を覚えずにはいられない。

プレミアリーグ制覇を経験したレスター・シティを退団した昨夏。新天地をスペインに求めた岡崎は、地中海に面する街を本拠地とするラ・リーガ2部のマラガと1年契約を結んだ。しかし、自身のあずかり知らぬところで、わずか1カ月での退団を余儀なくされる。

選手の年俸総額がリーグの定める上限を超えていたため、岡崎を含めた新加入選手の登録が認められないまま契約が解除された。それでも岡崎は自身のTwitterで、日本語とスペイン語の両方で「これからもマラガの成功を祈っています」とメッセージをつづり、努めて前を向いた。

もっとも、無所属の状態はそう長くは続かなかった。マラガ退団から2日後の昨年9月4日。ラ・リーガ1部から降格してきたウエスカへ加入した岡崎は、時間の経過とともに最前線で必要不可欠な存在へと昇華。最終的にはクラブ内で最多となる12ゴールをマークする。

迎えた現地時間7月17日。岡崎のゴールなどでヌマンシアを3-0で破ったウエスカはラ・リーガ1部へ自動昇格できる2位以内を確定させ、続く同20日のスポルティング・ヒホンとの最終節でも勝利。終了間際の失点でそれまで首位だったカディスが敗れたために、リーグ優勝まで手繰り寄せた。

「躊躇した方が危ない」 座右の銘を体現する意志の強さ

「2部に来てでも(昇格して)スペインで、1部でプレーしたい、という夢がこれでかなう。来シーズンはビッグチームもいっぱいあるし、自分たちはウエスカで初めてとなる1部残留を果たせるようにチームへ貢献して、自分がまたゴールを取れるように頑張りたい」

ウエスカの公式Twitterで喜びを表した岡崎のゴールをあらためて振り返っていくと、清水エスパルスでプロになった2005年から胸中に抱き続ける座右の銘と、鮮やかに一致するものがある。

それは「一生、ダイビングヘッド」――。現地時間8日のアルコルコンとの第39節。前半終了間際に右サイドから上げられた、低く速いアーリークロスに頭から体を投げ打つ。目の前にいた相手ディフェンダーが左足を高く上げ、クリアを試みようとした刹那でもまったく怯まない。

ウエスカを勝利に導き、自動昇格へ勢いをつけた岡崎の豪快なダイビングヘッドを介して、初めてのFIFAワールドカップ出場となる2010年の南アフリカ大会直前に聞いた言葉を思い出した。

「クロスが上がった瞬間に頭から飛び込んで、ちょっと後に『いまのプレー、危なかったかな』と思うことはありますけど、でも僕の方から体を投げ出せば相手選手の方が引いてしまうんですよ。僕がちょっとでも躊躇(ちゅうちょ)してしまえば、かえってそっちの方が危ないんです」

アルコルコン戦の映像を振り返ると、確かに左足を振り上げた相手の方が驚いている。勢いをつけて飛び込む自身の頭に相手のスパイクが当たれば、最悪の場合、大けがを招くかもしれない。それでも岡崎は10年前に笑いながら明かしてくれた矜恃を、34歳のいまもなお激しくたぎらせていた。

中学時代の恩師に贈られた言葉を、34歳になったいまも実践し続ける

「恐怖心を感じたこと? ないですね。鈍感という意味では、他の人よりもそうなのかもしれない」

異彩を放つ座右の銘は、兵庫・滝川第二高校からエスパルスへ旅立つときに、自分自身の礎が築かれたといまでも感謝する宝塚ジュニアFC時代の恩師、山村俊一コーチから贈られた言葉でもあった。

「(宝塚ジュニアでは)ボレーシュートが禁止だったんですよ。『おまえら、カッコいいプレーをするのは10年早い』って。だから、どんなに低いボールでもダイビングヘッド。コーチが上げたクロスに、僕たちがひたすら頭から飛び込む。トラップやパスの練習をした記憶がない。なので、どんな高さのクロスに対しても、ファーストチョイスはいまでもダイビングヘッドです」

こう振り返った当時のグラウンドは土か砂利。そこへダイブを繰り返すたびに、額に心地よい感触が残るたびに、そしてゴールネットが揺れるたびに、恐怖心が快感へと変わっていった。

「地面ぎりぎりのボールをヘディングで押し込もうとして、顔面でボールを挟み込んでしまうことも少なくなかった。体中がすり傷だらけで、鼻血なんかもう日常茶飯事で。でも、楽しくて仕方がなかった。これがサッカーなんだと、ずっと思っていたぐらいですから」

三つ子の魂百まで、と言うべきか。ダイビングヘッドを繰り返しているうちに、フォワードとして生き残っていくための主戦場も定まった。それはニアサイド――。ゴールポストがあろうが、相手の屈強なセンターバックが体を張って死守しようが、一切の迷いや不安はなかった。

クロスに対して頭から飛び込めば何かが起こる。自分がゴールを決められなくても、ファーサイドに詰めた味方にチャンスが生まれるかもしれない。愚直に、そして不器用に勝負を繰り返す姿勢が174cmと決して上背に恵まれず、身体能力も高くない自分の武器だといまでも信じて疑わない。

泥臭いとも表現される精神は、ボールを失った刹那にファーストディフェンダーに変身する姿や、相手のバックパスに単身でも猛然とプレスをかける姿へとつながっていく。特に後者に対しては徒労に終わることがほとんどとなる。それでも岡崎は「しんどい、と思ったこともない」と言い切った。

「そういう心境に至らないというか、いつかは必ず報われると信じているので、もう体に染みついているんですよ。それを繰り返して体力がもたないようであれば、もっと走り込めばいいだけのこと。限界を出さなければ次につながらないし、手を抜けばいまの自分そのものが存在しないので」

万に一つの可能性でも絶対に捨て去らない姿勢を、岡崎が名前を連ねた北京五輪の日本代表チームを率いた反町康治監督(現日本サッカー協会技術委員長)はこう表現したことがある。

「手を抜かないのではなく、手の抜き方というのを知らない選手でしたね」

指導者やファン・サポーターを感銘させるのに、国境や文化の違いは存在しない。反町監督と同じ思いを、レスター・シティに関わったすべての人々が抱いた。優勝した2015-16シーズンのゴール数は5だったが、労を惜しまない豊富な運動量から「陰のヒーロー」と称賛する声も少なくなかった。

ロシア・ワールドカップが不完全燃焼だったからこそ……

献身的なプレーが常に評価される一方で、フォワードを評価する唯一無二のバロメーターとなるゴールからは遠ざかっていく。日本代表では釜本邦茂、三浦知良に次ぐ「50」の大台に乗せた、2017年3月のタイ代表とのワールドカップ最終予選で決めたダイビングヘッドが現時点で最後になっている。

南アフリカ、ブラジルに次ぐ自身3度目のワールドカップとなった2018年のロシア大会は、グループステージ3試合に出場するも3大会連続のゴールを逃した。何よりもベルギー代表との決勝トーナメント1回戦で、交代枠を残したまま終了間際のゴールで負けたことが悔しかった。

このときは右足首に抱えたけがの回復が遅れ、ギリギリで間に合わせた、という事情もあった。それでも不完全燃焼の思いを募らせたことが、自分にとっての収穫だったと明かしたこともある。

「ロシア大会を戦った後に自分のなかに残ったのは、もう一度4年後のワールドカップへ、という強い気持ちだった。万全な状態で臨んでいたら、もしかしたら何も残らなかったかもしれない。ある意味で自分には達成感がなかったので、4年分のモチベーションを与えられた感じです」

追い打ちをかけたのが、レスター・シティでの4年目となった2018-19シーズンだった。21試合に出場するも先発はわずか1度。ほとんどが中盤の汗かき役としての仕事を託された結果、ヨーロッパにわたって9シーズン目で初めて無得点に終わったなかで、契約満了による退団が発表された。

「自分から何かを教えるつもりはない」 日本代表のあるべき姿とは?

コパ・アメリカに臨む森保ジャパンに招集され、ロシア大会以来となる日本代表復帰を果たしたのは、5つ目の所属先をヨーロッパで求めていたときだった。ブラジルへ渡る前に行われた国際親善試合でベンチ外となり、愛着深い「9」から「18」へ変わった背番号を岡崎は逆に歓迎していた。

「自分としては、日本代表の『9』番には特別な思いを抱き続けてきた。なので、そう簡単に自分のところに戻ってくるようなものであったらいけないと思ってもいた。もう一度海外で結果を出して、正真正銘の点取り屋として戻ってきたときに、自信をもって『9番をつけたい』と言えればいい」

コパ・アメリカに臨んだ日本代表は、18人もの東京五輪世代が名前を連ねる特別な編成になっていた。森保一監督からは積み重ねてきた濃密かつ稀有(けう)な経験を若手へ伝えてほしいとも期待されていたが、岡崎は「自分の方から何かを教えるつもりはまったくない」と言い切っていた。

「海外でプレーするにはああだ、勝つためにはこうだと僕が言うことが、経験を伝えることじゃない。僕自身がチャレンジし続けること、いま現在よりもうちょっと成長した自分を求める姿が、若手にとっての経験になると思うので。ベテランと若手の融合、という言葉がロシア大会後によくいわれているけど、実力のある選手が最終的に残っていくのが日本代表だと個人的には考えている。そこは若い選手もベテランも一緒だし、お互いにいいところを出し合いながら、強くなっていくのが本来の姿なので」

紆余曲折を経て加入したウエスカで刻んだ軌跡は、コパ・アメリカを前にして残した言葉がそのまま実践されていた。自己犠牲を厭(いと)わない精神とストライカーが持ちうるエゴイズム、そしてさらなる成長と日本代表への復帰を期す熱き思いが融合されていた、と表現すればいいだろうか。

昇格を決めた一戦、あの“華麗”なゴールも、これまでのサッカー人生の集大成

ラ・リーガ1部への昇格を決めたヌマンシア戦では、右足のかかとで押し込んだゴールが華麗だと称賛された。このシーンをあらためて振り返れば、味方のクロスに対してニアサイドへ一直線に迫り、クロスが後方へずれたところで、とっさに自身の左足の後方で右かかとをボールにヒットさせた。

つまり「一生、ダイビングヘッド」だけでなく、座右の銘から導かれたニアサイドも、岡崎のなかにいまもなお脈打っていることになる。あらためて10年前の取材ノートを読み返せば、同じ1986年生まれの盟友、本田圭佑への対抗心を燃やしながら、岡崎はこんな言葉を残している。

「圭佑のように世界に出たいと、僕自身も思っています。いつかは世界ナンバーワンのストライカーになりたい、と無謀にもずっと考えてきたんですよ」

初心を決して忘れることなく、その上でどこまでも純粋に、貪欲に夢を追いかけ続けるひたむきな姿は国境や文化の違いを超えて、岡崎のそばにいる人間の心を揺さぶるのだろう。ウエスカと結んだ1年契約には延長オプションがついている。34歳でのラ・リーガ1部挑戦へ。スペインで、そして活躍を遠く見守る日本で、戦いを終えたばかりの岡崎を求めるカーテンコールが鳴りやまない。

<了>

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