大滝詠一と松本隆の黄金の6年間「A LONG VACATION」が開けた新しい扉

1981年 3月21日 大滝詠一のアルバム「A LONG VACATION」が発売された日

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小早川秋聲の戦争画と、瀬尾光世のプロパガンダ映画

NHKのBSプレミアムに『プレミアムカフェ』なる過去の番組を再放送する枠がある。先日、そこで放映された、画家の小早川秋聲(こばやかわ しゅうせい)のドキュメンタリーが面白かった。

小早川は、大正から昭和中期にかけて活躍した日本画家である。一般には “戦争画” の大家として知られる。戦争画とは、軍の要請を受けて従軍画家として戦地に赴き、国威発揚のために描いた絵画のこと。要するにプロパガンダ作品だ。小早川自身が特に好戦的であったわけではないが、当時、画家として生きるために、それは仕方のない選択だった。

興味深いのは、現在の画壇から、小早川の作品は一定の評価を受けていること。もちろん、それは戦争を肯定する意図で描かれたものである。しかし、純粋に絵画作品として見た場合、その構図や色彩に多分に芸術的価値が見られるという。その話を聞いて、僕は先の大戦下で同じくプロパガンダとして作られた1本のアニメーション映画を思い出した。

それは、海軍が出資して製作した『桃太郎 海の神兵』である。日本初の長編アニメーション映画で、終戦間際の1945年4月に劇場公開され、当時16歳の手塚治虫が大阪の松竹座で観たことでも知られる。手塚少年はそのクオリティに感激し、アニメーション制作を志すキッカケになったという。

ちなみに、同作品を手掛けた瀬尾光世監督は、当時、ディズニーの『ファンタジア』にヒントを得て、子供たちも楽しめるようにと、ミュージカルの手法を取り入れたという。そう、作品がプロパガンダであろうと関係ない。手塚少年にとって、そのアニメ作品は純粋に面白かったのだ。戦後、テレビの企画で手塚治虫は瀬尾監督と対談し、感謝の意を伝えている。

三谷幸喜の映画「ラヂオの時間」にみるプロフェッショナルの仕事

三谷幸喜監督の映画デビュー作『ラヂオの時間』に、こんなシーンがある。主婦の鈴木みやこ(鈴木京香)が書いたラジオドラマの脚本が、ヒロインの千本のっこ(戸田恵子)のワガママで次々に変更され、まるで別の話になってしまう。みやこは耐えきれず、スタジオに立てこもり、「最後に私の名前を読むのをやめてください!」と、プロデューサーの牛島(西村雅彦)に訴える。これを受けての牛島の返答がちょっといい。

「あんた、何もわかっちゃいない。我々がいつも自分の名前が読まれるのを満足して聴いてると思ってるんですか。私だって名前を外してほしいと思うことはある。でも、それをしないのは、私には責任があるからだ。どんなにひどい番組でも、作ったのは私だ。そこから逃げることはできない。満足いくものなんて、そう作れるもんじゃない。妥協して、妥協して、自分を殺して作品を作り上げるんです。(中略)悪いが、名前は読み上げますよ。なぜなら、これは、あんたの作品だからだ。紛れもない――」

そう、要はプロフェッショナルであれということ。たとえ不満足な制作環境でも、その中で全力を尽くし、自分なりの作品に仕上げる。そうして作品が世に出れば、いつの日か、必ずや評価される時が来る―― そう、牛島は言いたかったのだ。

ちなみに、この作品、元は東京サンシャインボーイズの舞台劇で、当時、三谷幸喜サンがフジテレビで初めて連ドラ『振り返れば奴がいる』の脚本を手掛けた際、演出家から、ことごとくコメディシーンを削られた経験をもとに書かれたものなんですね。要は、三谷サン自身の戒めにもなってるんです。

大滝詠一が取り組んだ数多のコマーシャルソング

えっ、大滝詠一サンのコラムなのに、冒頭から何を長々と話してるんだって?

そうそう、何が言いたいかというと、かの「はっぴいえんど」がラストアルバム『HAPPY END』をリリースした1973年2月25日の翌日、大滝サンが心機一転、取り組んだ仕事が三ツ矢サイダーのCMだったんです。それは70年代を通して、御大の経済的支えになるんだけど、普通なら格下に見られがちなコマーシャルソングの仕事を、大滝サンはプロフェッショナルとしてマジメに取り組み、見事に自身の “キャリア” にしたんです。そして―― 奇たるべく80年代の大ブレイク期を迎えたと。

そう、今日、7月28日は大滝詠一サンの誕生日。ご存命なら72歳――。今回のコラムは、前回の松本隆サン(松本隆の時代、黄金の6年間の幕開けは原田真二「タイム・トラベル」)から続く、いわば後編。いよいよ、はっぴいえんどの次男と三男が大きく飛躍する、1978年から83年にかけての “黄金の6年間” の軌跡を追いたいと思います。

ジャケットは永井博、80年代の幕開けに相応しい「A LONG VACATION」

 くちびるつんと尖らせて
 何かたくらむ表情は
 別れの気配を ポケットに匿していたから

大滝詠一サンのアルバム『A LONG VACATION』がリリースされるのは、1981年3月21日である。全10曲中9曲を松本隆サンが作詞を手掛けたことから、当時、はっぴいえんどの再来と騒がれた。

1曲目の『君は天然色』から、いきなり厚みのある音圧に僕らは包まれる。そして、どこまでもメロディアスな大滝サウンド――。松本隆サンの詞はとことんポップで、ジャケットの永井博サンのイラストはトロピカルそのもの。陽気な80年代の幕開けに相応しい1枚だった。

事実、当時の10代男子は、みんな同アルバムに飛びついた。部屋には永井博サンのポスターを貼り、ダビングしたカセットをウォークマンに入れ、出掛ける時はいつも持ち歩いた。1981年の夏は、そんな陽気なシティボーイが街中にあふれていた。正直、僕も含めて大半の10代男子は、それが大滝詠一サンとの出会いだったと思う。「なんてイカしたサウンドなんだ」―― 僕らが御大の過去を探ったのは言うまでもない。そして、思わぬ “異世界” に驚愕する。

70年代のナイアガラ・レーベル、世間的にはほとんど無名

今でこそ、僕らは大滝詠一サンの70年代のナイアガラ・レーベルは、名盤・奇盤の宝庫と知っている。だが、80年代の10代男子にその洗礼は少々荷が重すぎた。中山泰サンが手掛ける一連のオシャレなジャケットデザインに反し、そのサウンドは一歩足を踏み入れると、深く、そして迷宮だったのだ。

無理もない。これは大滝サン自身が何かのインタビューで語ったことだけど、日本人が一昔前の音楽をオマージュやリスペクトと称して語るようになったのは、80年代以降だと。それまでは音楽家自身も、昔の音楽をあまり語りたがらなかった。つまり、70年代の時点で、三橋美智也やクレイジーキャッツまでマニアックに深掘りしていたのは御大くらいしかいなかったのだ。

実際、70年代後半の日本コロムビアとの提携時代、大滝サンは3年間でアルバム12枚という驚異の契約をこなすものの、セールスは尻すぼみに下がり、世間的にはほとんど無名の存在だった。今でこそ、“ナイアガラー” と称する御大を敬愛して止まない信者たちのマーケットは盤石だが、そこに至るまで、僕らにはもう少し時間が必要だった。

気がつけば、はっぴいえんどの4人のうち、他の3人が順調にソロとしての活動を充実させる中、大滝サン一人が取り残されようとしていた。1978年11月25日、アルバム『LET'S ONDO AGAIN』のリリースをもって、波乱万丈に及んだ日本コロムビアとの契約は終了する。そして、ナイアガラ・レーベルも一旦幕を降ろした。

大滝サンは長い休み―― 文字通り “ロング・バケーション” に入った。その時、御大にある考えが浮かぶ。「そうだ、松本に相談しよう」――。

ついに「黄金の6年間」スタート、異端は時代のスタンダードに

 机の端の ポラロイド
 写真に話しかけてたら
 過ぎ去った過去
 しゃくだけど今より眩しい

「黄金の6年間」とは、音楽を始め、映画や小説、広告など、メディアを舞台に、様々なジャンルがクロスオーバーを始めた時代である。様々な才能が頭角を表し、新陳代謝が一気に進んだ。角川映画は小説と映画と広告を横断し、村上春樹は文壇を嫌い、イラストレーターやコピーライターとコラボを始めた。

時代は大滝詠一サンの求める時代に近づきつつあった。77年にそれまで自身が手掛けたCMソングを集めた『NIAGARA CM SPECIAL Vol.1』をリリースしていたが、当時は異端と思われたことが、逆に時代のスタンダードになろうとしていた。

1979年から80年にかけて、大滝サンは新しいアルバムのコンセプトを固めていった。ジャケットデザインは永井博サンのイラストを用いる。作詞は朋友・松本隆サンに依頼する。楽曲はメロディを立たせ、売れるアルバムにする――。1980年4月18日、ナイアガラ・レーベルのCBSソニー(現:ソニー・ミュージックエンタテインメント)への移籍が決まり、本格的にアルバムのレコーディングを始める。タイトルは『A LONG VACATION』―― リリース予定日は1980年7月28日―― 自身の32回目の誕生日だった。

松本隆を襲った悲劇、そして生まれた “あの” フレーズ

だが、ここで作詞を担当する松本サンに、思わぬ悲劇が襲い掛かる。幼少の頃から心臓が弱く、病弱だった妹が26歳の若さで世を去ったのだ。妹思いの松本サンは落胆し、言葉を失い、その日から詞が書けなくなった。

松本サンは大滝サンに仕事の降板を申し出た。
「今は何も書けない。他の作詞家に変えてくれないか」

だが、それを聞いた大滝サンはこう返したという。
「待つよ。このアルバムは君と作ると決めたんだ」

こうして、今度は松本サンが長い休みに入った。季節は夏を迎え、当初予定されたリリース日を過ぎた。だが、大滝サンは松本サンが戻ってくることを信じ、何も言わなかった。さらに季節は秋から冬へと移ろい、木枯らしが吹き始めた。そんなある日、松本サンが街を歩いていると、ふと目の前の風景が白黒に見えたという。

「そうだ。妹のためにも、今の自分の気持ちを書き記そう。正直に、ありのままに。これは、僕にしかできない仕事なのだ」―― 松本サンは作詞の仕事を再開した。そして、あの有名なフレーズが生まれる。

 想い出は モノクローム
 色を点けてくれ
 もう一度 そばに来て
 はなやいで うるわしの
 Color Girl

1981年3月21日、アルバム『A LONG VACATION』リリース。当初の予定より半年以上遅れたが、それは熟成のための必要な時間だった。この年、同アルバムはミリオンセラーに達し、アルバム年間売上げ第2位を記録する。気がつけば、大滝サンと松本サンは、時代のひのき舞台に立っていた。

長い休みが、2人の新しい扉を開けたのである。

※ 指南役の連載「黄金の6年間」
1978年から1983年までの「東京が最も面白く、猥雑で、エキサイティングだった時代」に光を当て、個々の事例を掘り下げつつ、その理由を紐解いていく大好評シリーズ。

■ 松本隆の時代、黄金の6年間の幕開けは原田真二「タイム・トラベル」
■ 中森明菜「トワイライト」人々の記憶から薄れていった来生姉弟のスローバラード
■ さとう宗幸と黄金の6年間、運命のミリオンセラー「青葉城恋唄」ヒットの軌跡
etc…

カタリベ: 指南役