「幸福な人生。でも戦争なければ」不発弾で失明右手指2本に 奪われた6歳の光と夢

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戦争で失明などの障害を負った人の苦難を語る北川忠司さん。手指をかざし、平和を願う=神戸市垂水区

 一発の不発弾が、少年の光と利き手の自由を永遠に奪った。終戦7カ月後の淡路島で、当時6歳だった北川忠司さん(81)=神戸市垂水区=は、兵器と知らずに遊んで爆発に巻き込まれ全盲となり、3本の指も失った。鍼灸(しんきゅう)マッサージ師として生き抜いたが、障害者ゆえの苦難も経験した。「戦争さえなければ夢を追えた」。戦後75年の今、奪われたものの大きさ、平和の尊さをかみしめる。(佐藤健介)

 1946年3月、兵庫県三原郡八木村(現同県南あわじ市)。まき拾いの山中で、北川さんの兄が紙飛行機のような形の金属板を見つけた。「土を耕す農具代わりに」と家に持ち帰り、金属板に付いていた金属製の円筒を外して置いた。

 翌日、北川さんは玄関の土間に腰掛け、円筒で遊んでいた。小さなプロペラを数度回すと、爆発した。意識が戻った時には「急に停電したような真っ暗闇だった」。破裂した円筒の金属片で両目を失明。右手の指3本も吹き飛んだ。

 回復後、近所の子どもらに、薬指と小指だけが残った手を「ザリガニ」とからかわれた。怒って追うと、たんぼ道を踏み外して溝に落ちた。

 ある時、母が父の前で「忠司を連れて死ねばよかった」とすすり泣く声を聞いた。「不発弾を拾ってきた兄は常に胸を痛めているだろうし、それ以上に両親も苦しんでいる」。家族の誰にも、悩みを打ち明けられなかったという。

 兄や姉の縁談でも、北川さんの障害が話題になった。「きょうだいに厄介をかけてはいけない。自立しなければ」と決意。神戸市の県立盲学校(現県立視覚特別支援学校)の理療科に進み、鍼灸マッサージ師を目指した。

 右手の指2本だけでははりをうまくつまめず、皮膚にまっすぐ差し込めない。練習の末、斜めにはりを入れるなどし、つぼを捉えられるようになった。就職にも苦労したが、盲学校の先輩が自分の治療院で雇ってくれた。客から「そんな手で施術できるのか。見た目も気持ち悪い」と心ない言葉を浴びたこともあったが、めげずに施術の工夫を重ねた。丁寧な仕事ぶりが評判となり、20代後半で独立開業できた。

 結婚して3人の子どもを授かった。「出会いに恵まれ、幸福な人生」と言いつつも、心にしこりが残る。

 「淡路島の豊かな自然に囲まれて育った。動植物の観察記録を付けたり、高原で馬に乗ったりしたかったが、その夢はかなわない。あの戦争がなかったら。もし障害者になっていなかったら」と無念は募る。

 「命を落とした人だけが犠牲者ではない。目をつぶされた人、手を砕かれた人、その家族も同じ。戦争はむごい」