母国の主体性守るため活動、李登輝・元総統 写真特集

2007年5月、松尾芭蕉像の前で自作の俳句を披露する台湾の李登輝元総統=東京都江東区(AP=共同)

 台湾の民主化を推進したことから「台湾民主化の父」と呼ばれた元総統の李登輝氏が30日、多臓器不全のため死去した。97歳だった。台湾出身者(本省人)として初の総統として「台湾人の新国家」を目指した。台湾の独立性を守るため、退任後も精力的に政治活動を行った生涯を共同通信の記事を基にまとめ、写真で振り返る。(47NEWS編集部)

台湾の李登輝元総統の死去を1面トップで報じた7月31日付の台湾各紙(共同)

 李氏は日本統治下の1923年、現在の新北市で生まれた。「岩里政男(いわさと・まさお)」という日本名で日本の教育を受け、京都帝国大(現京都大)に入学。在学中に志願兵で軍に入隊し、陸軍少尉として名古屋で終戦を迎えた。

 その後、台湾に戻り台湾大を卒業。さらに、米コーネル大で農業経済学博士号を取得した。蔣介石の長男で元総統の蔣経国に見いだされ、農業経済学者から政界入りした。

 当時の台湾は、日本による50年間の植民地統治後に中国共産党との内戦に敗れた国民党の蔣介石ら大陸出身者(外省人)が支配する「外来政権」であった。そのあおりを受けて、本省人は人口の大半を占めているにもかかわらず政治上の主役になれずにいた。

 李氏は作家の司馬遼太郎氏との対談で「台湾人として生まれ(ながら)台湾のために何もできない悲哀があった」と口にしている。李氏の原点を象徴している言葉だ。

1988年1月13日、総統就任式で宣誓をする李登輝氏(台湾行政院新聞局提供・共同)

 78年には蔣経国により台北市長に任命される。84年に副総統に就任。88年1月、蔣元総統の死去に伴い副総統から総統に昇格し、同年7月には国民党主席に選出される。すると、本省人総統への期待を追い風に改革を精力的に進めた。

 91年には中国共産党を反乱団体と規定した憲法の臨時条項を廃止した。このことで、長らく続いていた中国との内戦状態に事実上の終了を宣言した。

1996年3月、初の直接選挙による総統選で勝利し、支持者に手を振って応える台湾の李登輝総統=台北市(共同)

 そして、96年に初の総統直接選挙を実現した。このことは「民主国家」として世界の脚光を集めた。

 この時の選挙は、李氏の当選阻止を狙う中国がミサイル発射を含む軍事演習を台湾近海で展開するなど異常とも言える状況下で行われた。李氏は見事に当選し、初の民選総統になった。このことから、台湾では「ミスター民主主義」と呼ばれていた。

2017年10月、笑顔でインタビューに答える台湾の李登輝元総統=台北市(共同)

 99年、「中台は特殊な国と国の関係」だとする「二国論」を提起する。すると、中国は「独立派」と批判した。同時に軍事的威嚇をエスカレートさせたが譲らなかった。

 改革は教育面にも及んだ。主に中国本土で起きたことを教えていた歴史の授業を、台湾の歴史を中心に据えたものに変えた。このように台湾の歴史や文化を重視する教育は、若者たちの間に「台湾人意識」を醸成、今では社会の主流に育っている。

 17年の共同通信とのインタビューでは、当時を振り返って次のように語った。「総統在任中には、それまで中国教育に染まっていた台湾人の精神改革を進めました。ベースになったのは、私や家内が身をもって学んだリップンチェンシン、『日本精神』です。誠実、勤勉、奉仕、責任などの美徳をまとめて指す言葉として今でも台湾で使われています」

宮城県岩沼市の「千年希望の丘」で慰霊碑に献花する台湾の李登輝元総統=2015年7月26日午後

 2000年に総統を退任。「22歳まで日本人だった」と公言する親日家で、退任後も9回訪日した。07年には松尾芭蕉の「奥の細道」にゆかりがある場所を巡った。15年には東日本大震災の被災地を訪れている。

 ここ数年は自ら進めた民主化が「限界に達している」として、憲法改正を含む「第2次民主改革」を進めるべきだと提言していた。亡くなる直前まで「台湾の主体性を、もっと強化しなければならない」と訴えていた。

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