「平和への誓い」半世紀 歴代の被爆者代表のメッセージ 壮絶な体験、核廃絶の訴え 軍拡核大国を非難 被爆者援護求める声

谷口稜曄さん(1974.2015年)

 1970年に始まった「平和への誓い」を読み解くと、歴代の被爆者代表のメッセージからは、壮絶な体験や核廃絶の訴えに加え、被爆者援護問題や核を巡る情勢など、その時代の背景も見て取れる。
 「政府は率先して原爆の実態を世界中に知らせ、次代に伝える義務がある。それが平和への道」。核拡散防止条約(NPT)が発効した70年、最初の被爆者代表を務めた辻幸江さん=当時(44)=は、こう訴えた。手にはケロイド。悲痛な叫びに、例年、静かに祈りをささげてきた式典会場の遺族席からは、共感の拍手が沸いた。
 戦後、生活の場を奪われ、医療面の救済もないまま後遺症や差別に苦しんだ被爆者らは、国の援護を求めて声を上げた。国会陳情など地道な活動は原爆医療法(57年施行)、原爆特別措置法(68年施行)につながる。だが、死没者遺族への弔慰金などはなく、誓いでは悲願の国家補償を求める声が相次いだ。
 74年、谷口稜曄さん=当時(45)、故人=は「みなさんの悲惨な死を無駄にしない。原水爆の廃絶と被爆者援護法の制定実現まで努力を続ける」と強調。77年、被爆で下半身不随になった渡辺千恵子さん=当時(48)、故人=は「世界でただ一つの被爆国でありながら、日本には核兵器を禁止する法律も、被爆者援護法もない」と嘆いた。95年、旧2法を統合した被爆者援護法が施行されたが、国家補償については言及されず、現行法は社会保障の意味合いが強い。

渡辺千恵子さん(1977年)

 誓いでは、繰り返される核実験への怒りも渦巻いた。75年、山口仙二さん=当時(44)、故人=は「私たちの苦しみや怒りをよそに、原爆投下をもって幕を開けた世界の核軍拡競争は、ますます激化している」と核大国などを非難。2001年、池田早苗さん=当時(68)、故人=は「戦争が憎い 原爆が憎い 核兵器が憎い」と吐露した。

山口仙二さん(1975年)

 09年、“核兵器なき世界”を訴えたオバマ米大統領=当時=のプラハ演説を、多くの被爆者が歓迎した。その年、奥村アヤ子さん=当時(72)=は「やっと被爆者の声が世界に届いた形となり、心強く感じている」と期待感を込めた。ただ、その後、核を巡る情勢は楽観できない状況が続いている。
 米国の“核の傘”に頼る被爆国の日本政府へも厳しい視線が向けられてきた。14年7月、集団的自衛権行使を可能とする憲法解釈変更が閣議決定されると、城臺(じょうだい)美彌子(みやこ)さん=当時(75)=は「集団的自衛権の行使容認は日本国憲法を踏みにじった暴挙」と、手元の原稿にはない言葉で批判した。
 17年、核兵器の開発や保有、使用などを全面的に禁止する核兵器禁止条約が国連で採択されたが、日本政府は反対の姿勢を崩していない。18年、田中熙巳さん=当時(86)=は「極めて残念」と切り捨てた。
 被爆の遺伝的影響への不安を口にしたのは、1995年の中島玲子さん=当時(64)=。「いつ私に後遺症が襲ってくるか。息子や娘は大丈夫だろうかと不安が募る」。全国被爆二世団体連絡協議会は国に対し、法的援護がない被爆2世、3世が抱える健康不安など実態調査の実施などを求めている。
 手話で思いを伝えた被爆者もいる。2003年、ろうあ者として初めて誓いに臨んだ山崎榮子さん=当時(76)=。「ろうあ者は長い間、原爆の実態を知ることからも閉ざされていた。こうして苦しみを訴えることができて感無量」と訴え、参列者の涙を誘った。

山崎榮子さん(2003年)

 歴代の代表が共通して訴えてきたのは、平和への思いだ。昨年、誓いに立った山脇佳朗さん=当時(85)=は19年、英語でこう締めくくった。「この世界から核兵器を廃絶し、長崎を最後の被爆地とするためにみなさんの力を貸してください」

山脇佳朗さん(2019年)

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