コロナ禍と中国の海洋進出で崩れる秩序

急速に高まる原油輸送の地政学リスク

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藤和彦

独立行政法人経済産業研究所上席研究員

藤和彦

独立行政法人経済産業研究所上席研究員

1984年通商産業省(現経済産業省)入省、2003年に内閣官房へ出向(内閣情報調査室内閣参事官、内閣情報分析官)、2016年より現職。著書に「原油暴落で変わる世界」「日本発母性資本主義のすすめ」など多数

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 30年前の1990年8月2日は、湾岸危機(イラクがクウエートに侵攻し、併合した事件)が勃発した日である。当時の米国が世界に見せつけた軍事力や影響力は既に見る影もなく、中東地域の秩序の担い手が今、不在となりつつある。米国でシェール革命が起きたものの、湾岸産油国は世界の原油供給の主要な担い手のままの地位にいる。だが昨今のコロナ禍による原油需要の急落で深刻な財政赤字に苦しむ。中国の南シナ海への海洋進出も絡み、変わっていく原油輸送の地政学的リスクを、今後に向け整理する。(独立行政法人経済産業研究所上席研究員=藤和彦)

サウジアラムコの石油タンク=2019年10月、サウジアラビア東部アブカイク(ロイター=共同)

 ▽サウジアラビアの苦悩

 世界最大の原油輸出国であるサウジアラビアの第2四半期の財政赤字は291億ドルに達した。歳入の過半を占める原油収入が前年に比べて45%減少したからだ。深刻な財政状況に対処するため、7月から付加価値税を5%から15%に引き上げたが、さらなる増税が検討されている。

 サウジアラビアなど湾岸産油国は「レンテイア国家」と呼ばれている。石油など天然資源から得られる収入の一部を国民に享受させる代わりに、選挙権など政治的権利を認めないという国のあり方である。2011年に「アラブの春」が勃発した際、サウジアラビア政府は公務員や軍人の給料を2倍にするなどの措置を講ずることで国内の治安を維持してきたが、深刻な財政難のせいで「国民との約束」を果たすことができなくなりつつある。

 7月23日には「高齢のサルマン国王が胆のう炎で入院した」との報道が世界を駆け巡った。株価が暴落するなど一部に動揺が見られたものの、30日にサルマン国王は無事退院した。息子のムハンマド皇太子への譲位は時間の問題と言われているが、ムハンマド皇太子が進める「脱石油改革」は遅々として進んでいない。むしろ強引な政治手法が災いして王族との対立は深刻化している。

サウジアラビアのサルマン国王=2019年1月、リヤド(ロイター=共同)

 ▽混沌のイラク、イラン、UAE

 湾岸危機の主犯だったイラクの国内状況は、現在も混沌としたままで、最近の原油安によりサウジアラビア以上に痛手を被っている。公務員給与の遅配が発生し、バグダッドなどではコロナ禍にもかかわらず反政府運動が再び激化しつつある。消滅したとされるイスラム国の残党たちのテロも頻発している。

 アラブ首長国連邦(UAE)では8月1日、アラブ諸国として初めて原子力発電の商業運転が開始されたが、「イエメンのシーア派反政府武装組織フーシの攻撃目標になる」との懸念が生じている(8月1日付アルジャジーラ)。

 米国との対立が激化するイランは7月28日、ペルシャ湾へ通じる要路であるホルムズ海峡で米海軍空母の模型を含む複数の偽装の標的に打撃を加える軍事演習を実施した。

南シナ海上空を飛行する中国の空軍機=17年10月(新華社=共同)

 ▽マラッカ海峡をめぐる緊張

 ホルムズ海峡と言えば、その封鎖は日本の原油輸送にとって長年の「悪夢」だった。今、原油輸送を巡る地政学リスクはもはやホルムズ海峡にとどまらなくなっている。

 「中国との軍事的緊張が高まれば、マラッカ海峡の封鎖を検討すべきである」

 このように主張するのはインド海軍の専門家である(原油情勢に詳しいOILPRICE)。インドネシアとマレーシア間を通るマラッカ海峡は、アジア地域への物資輸送の大動脈である。日量1600万バレル(日本の1日当りの原油需要の4倍)の原油が、日本、中国、台湾、韓国などに輸送されているが、インド海軍がマラッカ海峡の封鎖を検討している背景には中国との対立激化がある。

 6月15日、標高約4200メートルのヒマラヤ山脈の国境沿いのラダック地方ガルワン渓谷で中印両軍による衝突が生じ、45年ぶりに死者が発生したが、インドと中国の対立は海洋にまで及んでいる。7月上旬、中国はイランとの間で4000億ドルの資金援助の見返りに、ペルシャ湾上のキーシュ島を25年間借り受けることで合意した。海上でも「一帯一路」を進める中国が、ペルシャ湾内に軍事拠点が確保できれば、インド洋からペルシャ湾にかけての中国海軍の展開能力が飛躍的に高まることになる。「インド洋の支配権を中国に握られる」と危機感を募らせたインド海軍が、インド洋のアンダマン、ニコバル両諸島を起点としたマラッカ海峡風作戦を立案し始めたというわけである。

南シナ海での米海兵隊第31海兵遠征部隊の訓練=4月(米軍提供)

 ▽米中対立激化で消える海の平和

 南シナ海も「平和な海」でなくなりつつある。

 米国はこれまで経済的利益のために中国の「蛮行」に目をつぶってきたが、コロナ禍を契機に「堪忍袋の緒」が切れてしまった感が強い。ポンペイオ国務長官は7月13日、「南シナ海の大半の地域にまたがる中国の海洋権益に関する主張は完全に違法だ」とする異例の声明を出した。

 さらに米国政府は7月24日、米国の知的財産権と米国民の個人情報を守るため、テキサスヒューストンの中国総領事館を閉鎖した。「中国が領有権を主張する南シナ海の沖合でベトナムと油田開発を進めているエクソン・モービルへの妨害工作の中心人物が、ヒューストン中国総領事館で勤務していたことが関係していた」との見方が浮上している(7月24日付米FOXニュース)。南シナ海を巡る米中間のつばぜり合いは既に生じていた可能性がある。

 中国では「米国が南シナ海で中国が領有権を主張する暗礁などを奇襲攻撃して爆破する可能性がある」とする懸念も出ており、急速に強まった米中間の緊張が、武力紛争にまでエスカレートする可能性が高まっているのである。  このように、石油危機の震源地は、ホルムズ海峡だけではなく、インド洋からマラッカ海峡、さらには南シナ海にまで広がってしまったのである。

 日本のエネルギー安全保障は、「世界の警察官」である米軍がホルムズ海峡の安全な航行を保障するとの前提で築かれてきたが、今やゼロベースから再検討される時期に来ているのではないだろうか。