インドでのヨーガ修行体験記【後編】ココロにできた静寂な場所

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インドのヨーガの聖地でヨーガ修行を行ってきた。ヒマラヤ山脈とガンジス川のエネルギーを感じながらの4週間。ここでは、アシュラムでのヨーガ修行の様子と、修行を通じて得たものについて語る。

 

アシュラム生活2日目。本格的にヨーガ修行が始まる


プログラムが本格的に始まった。自己と同一視している自分の洋服のスタイルから離れ、エゴを消すために、ユニフォームが支給される。
日常世界では、ファションで自分のスタイルを持ち、自分らしさを持つことは良いことだとされるし、実際にそれは良いことだと思う。けれど、精神修行においては、凝り固まった「自分」という存在に対する執着を、いかに手放すかが大事なのだ。

ユニフォームは黄色と白。色にもまたその色固有のバイブレーションがあり、私たちはそこから影響を受けている。例えば、白は清浄の色で、黄色は学びの色であり、悟りへの道を示しているという。

そんなわけで、アシュラムではファッション性とは無縁のダボダボの白い綿のパンツと、黄色いTシャツで1か月過ごすことになる。何を着るかを考えなくて良いというのは、素晴らしい解放感だ。

 

ヨーガ修行プログラム。まずは、ガネーシャに祈りを捧げる儀式から

プログラムは、儀式から始まった。儀式は、目には見えない霊的現実へと意識を向ける入り口であり、スピリチュアルな体験ができるよう準備させてくれるものだ。
まず有名なインドの神様、ガネーシャに祈りを捧げる。ガネーシャは、障害となるものを取り除いてくれる神様だ。

ガネーシャのイメージ

ガネーシャは象に顔を持つ神様だけれど、その象がジャングルの木々を押しのけながら道を作っていくように、精神修行者に行く手を待ち受ける様々な障害を取り除いてくれるのだ。
例えば、霊的な覚醒の視点からは邪魔者になる5つの内なるデーモンがある。5つのデーモンとは、情欲、怒り、貪欲、嫉妬、そして恐れだ。どれも人間らしい、普通の感情だけれど、精神修行には足を引っ張るものとなってしまう。

最初に神様に祈りを捧げることには、他に大事な意味がある。それは、修行の成果はあくまでも神様からの慈悲であり、自分で成し遂げた自分の成果ではないということを意識するためだ。こうした神への祈りは、スピリチュアルな目覚めに不可欠となる心の態度である謙遜、つまり謙虚であることを促進してくれるのだという。またまた、日常世界では大事な自尊心や自信は精神修行では邪魔モノとなる。

 

「プレエゴ」「エゴ」「トランスエゴ」の区別

少し横道にそれるが、ここで注意しないとならないのは、「プレエゴ」「エゴ」「トランスエゴ」の区別だと思う。スピリテチュアリティを追求する人の中には、プレエゴとトランスエゴの混同が起きてしまっていることがあるからだ。

プレエゴとは、自我が確立する前の状態で、自己と他者、あるいは自分と周囲の世界とのしっかりした区別がついていない状態だ。この状態の心は、他者を自分の延長のように見ているから、周囲の人を尊重することができないし、自分の思うままにコントロールしようとする。他者が自分とは違う欲求や考えを持っているということが理解できない。
この自他の区別がついていないプレエゴの状態と、自分がより大いなるものの一部であるというトランスエゴの一体感は混同されがちだ。

エゴ、つまり自我は、自分の感情や思考をコントロールする自分の中心的な役割を持つもので、日常生活を送るうえでなくてはならないものだ。この自我をしっかりと確立し、自分の意見を持ち、自分の感情をコントロールし、周囲の人を尊重し、良好なコミュニケーション取れるようになる前に、プレエゴからトランスエゴにひとっ飛びしてしまいたくなることがある。
だからこそ一歩間違えると、ヨーガを含めた精神修行は狂信的なカルトのようになって、理想のために他の人たちを犠牲にしようとしたり、自分たちの信仰を周囲に押し付けようとする。

けれど大事な順番としては、エゴ、つまり自我をしっかり確立して初めて、自分より大きなものにために自分をわきに置いて、全体の中の小さな自分として、より偉大な聖なるものに生かされている無力で小さな自分を意識することができるのだ。

 

聖壇の火を前に、サンスクリット語で祈りを捧げる

儀式に話を戻すと、聖壇に火をおこし、その周りをヨギーたちが取り囲み、サンスクリット語による祈りを捧げること約1時間。私たちも共にひたすらマントラを唱える。儀式が進むにつれ、空気が次第に浄化され、場のバイブレーションが高まっていくのを感じる。

途中からは、参加者一人一人が、聖壇に進み火に供物を捧げ、祈りを捧げる。火に供物を捧げる行為は、私たちの命の営みそのものだ。植物や動物などを、私たちは命の糧として食すが、そのプロセスのなかで命あるものが、別の命のために犠牲となって燃えていく。
そしてヨギーたちは、自らの行為も神の燃えさかる炎に供物として捧げる。

目の前で燃えさかる炎の熱を顔に感じながら、その熱が少しずつ気持ちを高揚させていくのを感じる。この火は、生徒たちの心にシンボリカルに「火を付ける」ためでもある。
こうした精神修行に対する情熱とインスピレーションの受け渡しは、数千年のあいだヨギーたちの間で、まるで五輪の聖火リレーのように脈々と行われてきた親密なやり取りなのだ。精神修行は、自己規律が最も重要だ。だからこそ心の内側から湧き上がる精神の解放を目指す情熱がなくては成し遂げられない。この聖なる火を受け取り、アシュラムでの生活が始まった。

 

規則正しい、アシュラムでの1日


アシュラムでの生活の基本的なスケジュールは、朝5:20には起床ベルが鳴り、6時から瞑想をし、神様への歌を捧げる。
その後、7:30からチャイとビスケットのようなものを頂き、8時から10時までプラーナヤマという呼吸法と、アーサナ(いわゆるヨーガ)を行う。
10時から朝ごはんとお昼を兼ねたブランチを取り、11時からはアシュラム内の清掃などを行うが、これは見返りを求めずに自分の責務を果たす奉仕活動でカルマヨーガと呼ばれる。
12時から1時まではヴァガヴァッドギーターというインド哲学の聖典を読み、1:30にまたチャイのティータイムがあり、少し休憩と各自の勉強。
午後2時から3時まで、ヨーガの解剖学などの講義を受ける。4時から再びプラーナヤマと、アーサナをする。
夕方6時に夕飯を頂き、8時に再び、瞑想。21:30には消灯となる。

ヨーガとは、規律である。この規則正しいリズミカルな生活を4週間繰り返していくのだ。心身を清め、全体のバイブレーションを高めていきながら、身体、心、霊的な面での調和を目指す。

 

心身の浄化が進むにつれて、集中力が増してくる


人間のカラダと宇宙的なエネルギー

食事は全てベジタリアンで、味付けもシンプルだし、油もほとんど使っていないので、とてもあっさりしている。ほとんど毎回、少しの野菜とライス、そしてダルというメニュー。1日2回のそんな食事なのに、空腹も感じないし、不思議な満足感がある。
私たちが日常生活で何か食べたいと思う時、必ずしも本当に空腹なわけではない。嫌な気分を和らげたり、虚しい気分を満たしたり、お腹というよりも、心を満たすために食べていることが多い。アシュラムの生活では、精神が落ち着いているために空腹を感じないのかもしれない。

私たちのエネルギー源は実は食べ物だけではない。ヨーガの考えでは、私たちは3つの身体でできているという。

バイタルエネルギーのイメージ

1つ目は「グロスボディ」という物理的な身体。もう一つは「サトルボディ」、あるいは「アストラルボディ」と呼ばれる見えない身体。このサトルボディが物理的な身体を覆っていて、物理的な身体、つまりグロスボディを動かしているという。そして、最後の1つがグロスボディと、サトルボディを包むように存在している「コーザルボディ」。

サトルボディは、プラーナというバイタルエネルギーがエネルギー源だ。
「からだの“から”は、カラッポの“カラ”」というのは、野口体操の創始者である野口三千三さんの言葉だ。本来、私たちのカラダは、モノがギューギューに詰まった物体ではなく、宇宙的なエネルギーが、一次的に流れ込み、そしてまた通り過ぎていく、通り道なのだ。
このプラーナはこうした宇宙的なエネルギーで、私たちは、このプラーナを食べ物、太陽の光、呼吸からも摂取している。

私たちのカラダはエネルギーの通り道だからこそ、余計なモノがとどまらないようにしなければならない。滞るものは、腐敗する。入ってくるものを考える前に、余分なものを流していくことを優先しなければならないという。

だからこそヨーガでは、浄化を重要視する。

 

プラーナの通り道となる心身を浄化する

そのためアシュラムでの生活は、常に身を清めることを意識しないとならない。部屋も常に掃除をして、綺麗な状態を保つよう心がける。浄化することで、身体も心も魂も余計なモノを取り払い、宇宙的なエネルギーと一体となれるようクリアにするのだ。

ヨギーが身を清める方法として、Kriyas(クリヤー)と呼ばれる6つの浄化法がある。その内の一つがNeti(ネティ)という片方の鼻腔から、ポットで塩水をもう片方の鼻腔に流して粘膜をクレンジングする方法だ。

アシュラムで初めて、このネティを試してみる。最初は痛そうな気がして気がひけるのだけれど、やってみると顔を洗った後のようなサッパリ感がある。しかも空気の通りがよくなるせいか、頭もスッキリする。ヨギーは朝と夜2回ネティを行い浄化する。

また、カパラバティと呼ばれる呼吸法は、肺を浄化し、頭蓋骨を浄化する。

アーサナ、メディテーション、ベジタリアンの食事によって心身を浄化し、健康で健全に保つ本来の重要な目的は、別にある。それは、精神的修行に必要な、強い集中力を養うためだ。

メディテーションのイメージ

疲れているときに、集中力が落ちてしまうのは、誰でも経験していることだと思う。心身のエネルギーを高めることで、精神的静寂と集中力が得られるのだ。この強い集中力こそが、霊的修行においては重要な鍵となる。

自分自身の心身の浄化が進むにつれて、少しずつ、集中力が増して来ているのを感じる。毎朝6時からと、夜8時からの1時間ずつのメディテーションで、深い静寂を感じられるようになる。霧がかかっていた脳のなかが、スッキリと晴れ渡り、始めて今まで見ていた光景は霧のモヤを通してのものだったということに気付く。
メディテーションの間に訪れる、この深い静寂の世界と、少しずつ瞑想をしていない時間にもつながりを感じられるようになってきた。

 

アシュラム生活1週間経過。さらに浄化が進み、毎日悪夢が続く


アシュラム生活1週間を過ぎて、浄化が加速されている。この数日、毎晩悪夢が続いているのだ。今までの人生の問題、気になっていたこと、忘れようと記憶から押しやってきたことが、夢に洪水のように押し寄せてくる。まるで無意識の心の層のクレンジングをしているようだ。

アシュラムの僧に確認すると、やはりこれは浄化のプロセスだという。無意識にたまっていた余計なモノが、どんどん出て来ているのだそうだ。その僧は、気にせず、手放しなさいと笑った。
夢に対する心理学的な視点とは違うけれど、ヨーガの哲学の夢の捉え方も、とてもシンプルで良い。さらに、今までは、逃げていたような場面や人と夢のなかで向き合ったり、悪夢の趣も変わってきた。

 

毎日のヨーガでカラダが柔らかくなると期待していたが…

もともと私のカラダは硬い方だ。アシュラムで毎日4時間ちかくヨーガをすることで、ものすごく柔軟なカラダになるのではないかと期待していた。けれど、そう簡単にはいかない。少しずつ変化していくしかないのだ。
一つ気付いたことは、カラダのある一部が柔らかくなることで、あるポーズに対する恐怖心が減るというようなことがあることだ。

例えば、ヘッドスタンドをする際に、首の骨を折ってしまうのではないかという恐怖がいつもどこかにあった。

ヘッドスタンドのイメージ

その恐怖が、首が柔らかくなるに従って減っていったのだ。実際に、首の骨を折ってしまうというようなことは起こりえるわけだから、私の内側から湧いてきていた恐怖は、やみくもな行動にブレーキをかける必要なサインだったのだと思う。首まわりが柔らかくなり、ヘッドスタンドをする準備ができるなかで、そうした恐怖は消えていった。
カラダにはカラダのペースがあり、エゴがそれを急かしてはうまくいかない。エゴの「もっと」「早く」という欲を手放すことも、大事な修行の一つなのだ。

 

アシュラム生活2~3週間


チョコレートで酔うように

アシュラム生活2週間を過ぎて、久しぶりに好奇心からチョコレートを2かけ食べてみる。すると、脳がボヤーっとしてきて酔っ払ったような感覚になり、心拍数が上がり心臓がドキドキしているのを感じる。心身の浄化が進むにつれて、食べ物が心身に与えるインパクトに敏感になっているようだ。
こうした些細な変化は、日常生活ではかき消されてしまうけれど、私たちは本当に色々なものから影響を受けているのだということに改めて気付く。

チョコレートやアルコール、にんにくなど刺激のある食べ物は、前編で説明した3つの性質の中では、ラジャスという活発さ・激しさなど、動性の性質のあるものとして分類されるのだけれど、なぜそうなのかが腑に落ちる。

 

ヒマラヤ山脈、ガンジス川のエネルギーを感じる

ヒマラヤ山脈の気温は、夏でも低いに違いないと思ってやってきた。実際に、このアシュラムよりもさらに上に行くと気温はグッと下がる。けれど、標高が高いということは太陽光線も強くなるということだ。なので、日差しの照りつける昼間は想像していた以上に暑く、半袖でも汗が出るくらい暑い。

そんな時、私たちの楽しみはアシュラムの目の前のガンジス川支流で沐浴することだ。川の水は、いてつくほどに冷たく、足を入れただけでも全身がすくむほどだ。
けれど、その川の水に頭を浸し、カラダに水をかけると、一陣の清風が全身を駆け抜けていくような清涼感で満たされる。それほどに、ガンジス川の水は清らかなエネルギーで満ちている。

ヒマラヤ山脈のイメージ

その川の上にかかった橋の上もまた、心地の良い気が流れる場所だ。橋の上でしばらく深呼吸を続けていると、ガンジス川支流が運んでくるエネルギーは、ヒマラヤ山脈そのもののエネルギーだと感じられてくる。

古来、人は山そのものに対して信仰を持ってきた。山の麓(ふもと)にある神社のご本尊は、その山そのものである場合が多い。
多くのヨギーたちがこのガンジス川の近くの洞窟に籠もったり、川の近くに小屋を建てて修行したりしていたのは、そうしたヒマラヤ山脈全体のエネルギーをより近くに感じられるからかもしれない。

 

アシュラム生活最終週


マントライニシエーションを受け、スピリチュアルネームを授かる

アシュラム生活最終週に入り、僧侶から、マントライニシエーションを受け、スピリチュアルネームを授かった。
僧侶から授かったマントラは、決して誰にも明かしてはならないもので、瞑想時やジャパと呼ばれるマントラを繰り返す修行の際に心の中で唱えるものだ。

ちなみに、マントラは、音というフォームに閉じ込められた宇宙の神秘的なエネルギーである。だから、そのエネルギーを再度解放するためには、正しい発音で、繰り返しそのマントラを唱える必要がある。

スピリチュアルネームは、アシュラムなどで修行したりカルマヨーガなどの奉仕活動などをする時に使うことができる、もう一つの名前だ。この世界に生まれた時に名前を授かるように、霊的世界へ参入する際にも名前が必要なのだ。

 

アシュラム修行の最終日に見た夢

アシュラムを去る前日、まるで最後のイニシエーションのように、とても印象深い夢を見た。

アシュラムで一緒に修行をしてきた仲間に取り囲まれながら、私はアシュラムで開胸手術を受けている。手術といっても治療というよりも、ただ肋骨を開き、胸部を開いて、私の心臓を皆が覗きこんでいるという夢だ。

胸にはアナハタチャクラと呼ばれるサトルボディのエナジーセンターがある。このチャクラは、高次元の意識へと入る入り口で、高次のエネルギーと低次のエネルギーが融合されるという。
そんな入り口を「開ける」手術を、まさに受けたような気がする。まだ入り口に入っただけかもしれないけれど、霊的世界への参入を果たしたことを象徴するかのような夢だ。

 

ヨーガ修行を終え、下界へ。ココロの片隅にできた静寂な場所


アシュラムでの4週間の生活を終え、行きに通った同じ9時間の道程を、同じようにカラダをぶつけながら、同じような大音量のインドポップスを聴かされながら、文字通り下界のカオスに戻ってきた。

リシケーシュの風景

静けさと調和、純粋さは、あちらの世界のものだ。日常は決してピュアでもなく、汚れていて、調和もなく、混乱と活動に溢れている。
けれど、だからこそ生きていると言えるのかもしれない。私たち普通の人間は、そうした混沌のなかで毎日を生きていく。それで良いような気がする。
でも、まったく同じ自分として戻ってきたわけではない。

今回のヨーガ修行を通しての収穫は、永遠の世界への入り口となる深い静寂な場所が、ココロの片隅にできたことだ。日常の雑事に追われながらも、ふとその静寂な場所から、涼しい清らかな風が吹いてくるのを感じる。その風は、私をクールダウンし、そちらに目を向けるようささやく。そこでは、幾千の神々やヨギーたちが、今日もほがらかに笑っている。

 

この記事を書いた人:

五味佐和子

臨床心理士。カウンセリングルームHelix Centre 代表。https://helix-centre.com 心療内科、精神科での長年の臨床経験を経て、企業でのEAP(従業員支援プログラム)と教育研修(ストレスマネジメント、コミュニケーション等)の企画と実施、NPOでの就労支援など様々な場面で臨床経験を積んできました。