川崎歴史ガイド 東海道と大師道【駅ぶら03】京浜急行124

港町駅の川崎大師側の踏切を渡ります。

次の鈴木町駅方面。

かつての日本コロムビア川崎工場があった場所はタワーマンション「リヴァリエ」が建っています。左側の見えていないA棟、真ん中のB棟は29階建て、奥のC棟が28階建て。手前のB棟は上まで写真にはおさまりません。

見上げるとこんな感じ。昔の広告写真みたいですね。

北側の改札口に行きます。駅舎全体が見えます。

2013年(平成25年)北側のタワーマンションに合わせて作られた北口改札。京急さんのホームページにはマンション販売前の2011年(平成23年)の平均乗降人員約3000人/日が、2016年(平成28年)末時点で2倍以上の約7000人/日に増加したとありました。タワーマンション3棟で1388戸あります。

大師線の反対側、国道409号線「大師道」に行って「川崎歴史ガイド 東海道と大師道」を探します。まず「レコード製造の始まり」を見つけました。これがなかなか見つからず国道沿いを何度も往復しました。(笑)

記載内容は以下です。

いち早く川崎に進出した日本蓄音機製造株式会社。明治42年、日本最初のレコード製造がこの工場で始まった。今日まで心に残る数々の名曲がここから全国へ送り出されている。

背後には工場跡地に建てられたタワーマンションが見えます。

国道沿いをウロウロしたおかげで他の「川崎歴史ガイド 東海道と大師道」も発見しました。

「消えた地名久根崎」

この辺りは、かつて久根崎と呼ばれ、江戸時代には川崎宿を構成した町の一つ。明治後期から、水運の便に着目され近代工場が次々と建ち並んだ。町は変わり、地名「久根崎」は消えた。

確かに国道の北側は港町、南側は旭町という地名です。交差点に地名が保存されていました。

国道を少し西に行くと川崎競馬場があります。

ここにも「川崎歴史ガイド 東海道と大師道」があります。

富士紡績と競馬場

大正の初め、競馬場跡地に東洋一の紡績工場を建て、川崎の工業都市化を決定づけた富士紡績。女工二千人。沖縄出身者も多く、沖縄芸能が川崎に根づいた。戦後、跡地は再び競馬場に。

最初の競馬場は明治39年(1906年)川崎競馬場の開設でした。社長は「土佐のいごっそう」「板垣死すとも自由は死せず」の板垣退助伯爵。しかし競馬の過熱が社会問題となり、わずか2年で閉鎖。約13万坪の跡地に富士瓦斯紡績川崎工場が作られ、1915年(大正4年)操業を開始しました。多い時は6000人が働いていたそうです。この中に沖縄からの女工さん1000人がいました。1930年(昭和5年)の「煙突男」事件は劣悪な環境下で酷使された人々の労働争議の一幕として国内よりも海外で有名になったそうです。富士瓦斯紡績川崎工場は第2次世界大戦の戦禍で焼失しました。

その跡地に1949年(昭和24年)に現在の川崎競馬場が作られたのです。

那覇市歴史博物館の「富士瓦斯紡績川崎工場に働く沖縄出身女工」に、女工さんたちの写真がのっています。

自動車の往来が激しい国道沿いで明治、大正、昭和の歴史に思いをはせるのは、何とも不思議な気分でした。田舎住まいの筆者には些か空気も悪い。(笑)

では港町駅から「味の素の町」鈴木町駅に向かって出発進行。

【駅ぶら03】京浜急行125 に続きます。

(写真・記事/住田至朗)

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