長崎原爆で亡くなった兄やその死をきっかけに精神を病んだ母親を持つ後藤みな子さん(83)は「原爆後の家族」をテーマにする作家だ。小説を一切書かず、30年ほど「沈黙」していた時期があった。なぜ書き始め、やめたのか。再び筆を執った理由とは。75年前の原爆投下以降の歩みを、振り返ってもらった。(共同通信=井上浩志)
―原爆との関わりは。
長崎に原爆が落とされた1945年8月9日、母と共に福岡県の疎開先にいました。長崎には旧制中学生だった兄が学徒動員で残っており、母は翌日、兄を捜しに自宅がある長崎の浦上に入りました。兄は亡くなり、数日後に帰ってきた母は別人のようでした。
―母親の様子は。
私が外出先から帰宅すると、戻っていた母は大の字で寝ており、周囲にはかばんなど、兄の遺品が散乱。深手を負った獣のようだと思いました。私を見ても娘と分かっていなかったと思います。会話も成立しませんでした。
母の後を追って浦上に入った祖父の話などによると、母は死をみとった兄を離そうとしなかった一方で、火葬後のお骨には見向きもせず、一人で立ち去ったようです。その時点で正常な状態ではなかったのでしょう。
―その後、家族の生活は。
翌年の春、父が戦地から戻ってきました。数年後のある日、母の姿が消えていました。父が何の相談もなく精神科病院に入れたのです。「母を見捨てた」と感じました。ですが私も長崎のことを忘れたくて22歳の時、結婚を機に東京に移りました。母を捨てたようなものでした。
―長崎を離れた気持ちは。
東京では原爆のことを話す人がおらず、安心しました。ですが、原爆では罪もないたくさんの人たちが死に、母も正常ではなくなりました。「これでいいのか」とも思い、空虚な気持ちになりました。
―文学にはどのようにして出会ったのか。
31、32歳のころだったと思いますが、知人の紹介で高円寺(東京都杉並区)の小さなバーに通い始めました。ある作家夫妻が経営し、かわいがってもらいました。店には芥川賞作家も含め、当時はもう書いていないのに文学から離れられない人たちばかりがいました。文学の敗残兵だと思いました。
―その前から文学に関心はあったのか。
ほとんどありませんでした。ですが、なんとなく母や兄のことを詩にしたら、ある作家から「君は書く人だ」と繰り返し言われました。それで初めて書いた小説が「刻(とき)を曳く」でした。
―どんな思いで書いたのか。
母のことを、かわいそうだという気持ちだけで書いたつもりでした。その後の作品もそうです。ですが母を書き切れず、何のためにやったのだろうと思いました。父とは関係がぎくしゃくしました。「家族のことを人にさらした」と許せなかったのだと思います。書いたことが全くプラスにならず、74年にやめ、北九州市の小倉に引っ越しました。
―小説の執筆を再開したきっかけは。
2000年ごろ、私の作品を初めて読んだ娘から「書いて生きてほしい」と頼まれました。両親は既に亡くなっており、自由に書ける状況でした。本格的に再開したのは06年です。テーマは以前と変わりません。
―作品の読者には、どんなことを感じてもらいたいか。
「原爆の被害はあってはならない」ということです。個人の小さなことを書いているつもりですが、永遠の大きなテーマを感じてほしいです。
× ×
ごとう・みなこ 1936年、長崎市生まれ。「刻を曳く」で71年、文芸賞を受賞し、芥川賞候補にも選ばれた。北九州文学協会理事長。