海パン姿で原爆の日に長崎で遊んでいた私、今は… 被爆体験継承者として記者が「語り部」に

自身の被爆体験を継承し、語り部となった記者(左)の講話に耳を傾ける深堀譲治さん=4月、長崎市の平和公園

 14年前の長崎原爆の日、現地にいたのに海パンをはいてビーチで遊んでいた私。その後記者になり、昨年からことしにかけ、被爆者に代わって体験を語る継承者を養成する長崎市の事業に参加した。家族4人を奪われた惨禍や抱いてきた思いを受け継がせてくれた長崎市の深堀譲治(ふかほり・じょうじ)さん(89)は「反戦、反核の思いを次世代につなげたい」と語る。継承のための聞き取りを続けて見えたのは、経験の悲惨さ故に芽生えた使命感を胸に、色あせていく記憶を懸命に後世に残そうとする姿だった。(共同通信=井上浩志)

 ▽慌てて黙とう

 私は埼玉県出身で、記者になって7年目の2017年春に長崎支局に赴任するまで、被爆地とはほぼ縁がなかった。学生時代に旅行で広島、長崎両市を一度ずつ訪れ、双方の原爆資料館を見学したことはあるが平和問題への関心は高くなかった。

 実際、深く考えずに長崎旅行の計画を立て、ちょうど61年前に長崎市上空で原爆がさく裂した06年8月9日午前11時2分、20歳だった私は長崎市のビーチにいた。被爆地にとって大きな意味を持つ時刻を告げるサイレンの音を聞いてその日が9日であることを思い出し、慌てて黙とうした。海パン姿で黙とうしたことはこの後にも先にもない。

 そんな私が長崎市の事業への参加を決めたのは、長崎での取材で出会った被爆者や平和活動に取り組む若者らに感化されたのもある。だが契機となったのは昨年7月、被爆者団体「長崎県被爆者手帳友の会」の会長で16年の平和祈念式典で被爆者を代表して「平和への誓い」を述べたほか、福島やウクライナにも足を運んで国内外の核被害者との連帯を追求した井原東洋一(いはら・とよかず)さんが83歳で病死したことだった。

2016年、長崎原爆の日の平和祈念式典で、被爆者代表として「平和への誓い」を読み上げる井原東洋一さん

 厚生労働省によると、国が交付する被爆者健康手帳を持つのは19年度末時点で13万6682人。高齢化が進み、近年は毎年9千人超の規模で減っている。井原さんの前にも長崎の核兵器廃絶運動をリードする人物が相次いで亡くなり、長崎市の田上富久(たうえ・とみひさ)市長は「被爆者がいる時代の終わりが近づいている」として被爆体験継承の意義を強調してきた。

 私は、被爆者が自らの体験や反核への思いを語ってくれることがどれだけ貴重なことか、理解しているつもりだった。だが、面識がある被爆者が亡くなったのは井原さんが初めて。記者発表の際に取材しただけでなく、事務所で雑談にも応じてもらい、飲み会に誘うと「じゃあ、今日行こう」と気軽に乗ってくれた。最後に会ったのは亡くなる約2カ月前の飲み会。被爆75年に向けた取り組みを元気そうに語っていただけにその死は私にとって大きな衝撃で、被爆者の生の声が刻一刻と失われているという現実に強く迫られた思いがした。記者として記事を書くこととは別に「被爆者の体験を自分の中に残し、伝えたい」と思うようになった。

 ▽出会い

 原爆がもたらす惨状を生々しく語ることができる被爆者の高齢化を受け、広島市は12年、体験を受け継ぎ語る「伝承者」の養成を始めた。長崎市と東京都国立市も続き、3市で計210人以上が認定され、学校などに派遣されている。国立市は事業を担当する被爆者の死などにより、現在は派遣のみを行っている。

 長崎市の事業では、体験談を基に約30分間の講話用原稿をまとめ、審査を経て「証言者」となる。個人的なつながりなどから受け継ぎたい相手が決まっている人を除き、複数の被爆者から話を聞く「交流会」に参加し、事業を請け負う公益財団法人「長崎平和推進協会」に受け継ぎたい相手を報告する仕組みだ。私は昨年9月、2日間にわたり開かれた交流会で深堀さんと出会った。

深堀譲治さん

 話を聞かせてくれた被爆者は6人。継承を希望する人たちの前で深堀さんが話したのは35分ほどで、他の5人と同様、時間の多くを自身の被爆体験に割いた。だが私が深堀さんから継承することを望んだ理由は体験とは直接関係なく、深堀さんが終盤にこぼした言葉が印象に残ったためだ。

 「私はもう鈍っている。74年たち、情けないがあの時の感覚がなかなか戻ってこない」

 つらいはずの記憶を鮮明に思い出せなくなってきたことを悔しそうに語る様子は、体験を正確に伝えたいという気持ちの裏返しだと感じ、交流会終了時、私の希望はほぼ固まっていた。後日、受け継ぐ相手が深堀さんに決まった。

 ▽理不尽な別れ

 ことし3月に受けた審査までに深堀さんに聞き取りをしたのは5日間、計約8時間。5人きょうだいの長男である深堀さんは1943年に父親を病気で亡くしており、母ときょうだいの6人のうち、原爆を経て生きていたのは自分を除いて1人だけだ。理不尽に家族を奪われた過去は次のような内容だ。

1945年4月、写真に納まる深堀譲治さん(左端)と3人のきょうだい。(左2人目から)暁郎さん、待子さん、耕治さんは原爆で亡くなった(深堀さん提供)

 45年8月9日午前11時2分、学徒動員で爆心地から3キロ余りの旧制中学にいた時に突然、ピンク色の光を浴びた。けがはなく、爆心地から約600メートルの自宅方面を遮る山に目をやると尾根の辺りが真っ赤に染まっており、家族の無事を祈りながら自宅に向かった。

 自宅近くの丘で一夜を過ごし、翌朝家に戻った。だが跡形はなく、数メートル離れた場所で母親のサカヱさん=当時(39)=の遺体を見つけた。両手を挙げて何かを求めるような姿勢で倒れ、全裸でどす黒くなっていた。「あまりのことに涙は出ず、ただぼうぜんと手を合わせた」

 「どうか生きていて」。そう願いながら周囲できょうだいを探すと、次男の耕治(こうじ)さん=同(12)=と再会したが、喜びもつかの間。小5の三男暁郎(あきお)さんと長女待子(まちこ)さん=同(5)=と共に近所にお使いに出掛け、「暁郎は分からないが、待子は死んだ」と言われた。お使い先の店近くで暁郎さんは亡くなっていた。今度は待子さんが息を引き取った場所に向かった。

 「そこは、私が前夜を過ごした場所から10メートルも離れていなかった。耕治の話では、『お母さんはどうしているんだろう』と心配し、眠るように息を引き取った」

 「近くにいたのに…。暗い上に人が多くて分からなかった。亡くなる前に声を掛けてやれず、寂しい気持ちのまま死なせてしまった」

 ▽最期の言葉

 「10日に再会した時、耕治はしっかりした様子だった。だけど、次第に元気がなくなり食事が喉を通らなくなった。医者に相談すると『原因が分からずどうしようもない。みんなそういう症状がひどくなって亡くなっている』と言われた。死の宣告を受けたようなものだった」

深堀譲治さんが原爆で亡くなった弟耕治さんの最期を見守る様子を描いた絵。記者が講話で使用するため、漫画家の西岡由香さんに聞き取りへの参加を依頼、深堀さんの話を基に描いてもらった

 「耕治は『体が熱い』と訴えるようになり、下痢も激しくなった。16日か17日の昼ごろのことだったが、前夜から苦しみ続け『兄ちゃん、死ぬなよ』と言った。私は『しっかり。元気を出せ』と励ましたが、内心、良くなることはないだろうと思っていた。耕治は意識がなくなり、そのまま息を引き取った」

 「せっかく生き残ったのに…」

 深堀さんは感情を表に出さずに話すことが多かったが、耕治さんの死について語る際、声が少し震えていた。

 ▽戸惑い

 聞き取りの中で私が戸惑ったことがある。暁郎さんと待子さんの死に接した際の気持ちを聞いた時のことだ。

 「きちんと服を着ていてほっとした」

 肉親の予期せぬ死と、安心という感情が私の頭の中ですぐに結び付かなかった。

 深堀さんは2人の亡きがらを見るまでに母親だけでなく、頭が割れて脳みそが見えていた男児や、目が飛び出した全身黄色の性別不明遺体などを目にしていた。そのため「2人も残酷な形で亡くなっているかもしれない」と予感していたのだった。

深堀譲治さんの母、サカヱさん(深堀さん提供)

 深堀さんは原爆が落ちた日の翌日、きょうだい2人の遺体を見つけた後、自宅方面から長崎市中心部の親族宅に向かい、一番下の弟の無事を確認した。その道程で爆心地付近を通り、逆さまになった黒焦げの遺体や防火水槽に頭を突っ込んだままの遺体といった惨状を目にした。だからこそ聞き取りでは「被爆時、私は中学生だった。その上、爆心地のすぐ近くを通った。こういう人はもう、そんなにいないと思う」と繰り返し語り、五感で出来事を捉えることができた年齢で原爆に遭った人々が減ることへの危機感を漏らした。

 この危機感は、深堀さん自身を動かしたものでもあった。長年にわたり「つらく、忘れたい」と願い、体験を積極的に語ってこなかった深堀さんは、当時を知る人々が減る中、「原爆が何を引き起こしたかを知ってもらいたい」と考えるようになり、2009年に語り部になった。

 ▽自責の念

 一方、記憶が薄れゆくことに不安を感じているであろうことは、交流会の日以外にも感じられた。40年ほど前に被爆体験を文章にしていたこともあり、大きな記憶の欠落はないように私には思えた。同じことについて別の日に再び尋ねても、回答にぶれはなかった。だが質問が細かい内容に及ぶと答えられないこともあり、自分を責めるような言葉も発した。

 「もう、ダメだ」

 記憶を誰かに託そうと考えたのは、「戦争も核も絶対駄目。なくすためには被爆当時のことを語る人が必要だ」との信念からだったが、「正確に覚えているうちに」と打ち明けたこともあった。

深堀譲治さん

 私はスピーチ研修なども受けてことし3月、長崎平和推進協会や長崎市の関係者らの前で講話を発表する審査に合格。翌月、深堀さんに改めて講話を披露した。時折目をつむったままうなずいたり、腕を組んで上下を向いたりする様子からは、内容と自身の記憶に食い違いがないかを確認していることが伺えた。

 聞き取りを通じて私の中には、深堀さんの平和への思いに応えたいという感情が芽生えていた。この気持ちは、講話を終えた後に掛けてくれた一言で一層強くなった。

 「私が亡くなった後も伝えてくれたら幸いだ」

 ▽養成期間を終えて

 体験を語る被爆者の映像を見せるのではなく、継承者が語る意味はどこにあるのか―。長崎市の事業の存在を知った時、私はこうした疑問を持ったが、答えを出せないまま事業に参加した。手掛かりを得ようと4月、国立市の事業でアドバイザーを務め、自ら被爆者への聞き取りを続ける松山大の根本雅也(ねもと・まさや)准教授(社会学)に話を聞いた。

 だが、「被爆者のコピーではなく、聞き取った話を大切にしながら個性を出すことが大事だ」と言われ、逆に難しい問いを突き付けられた気がした。新型コロナウイルスの影響もありまだデビューしていないが、私にできることは平和問題に関心がなかった自分がなぜ継承活動に関わろうと思ったかを含めて伝えることではないかと今は思う。

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