五輪の精神受け継ぎ、東京での開催実現願う マラソン銀メダリストの君原健二さん #8月のメッセージ

 今夏開催される予定だった東京五輪・パラリンピックは新型コロナウイルスの影響で来年に延期された。1968年メキシコ五輪のマラソンで銀メダルを獲得した君原健二さん(79)は聖火リレーで福島県内を走る予定だった。幼い頃に終戦を迎えた君原さんに「平和の祭典」にかける思いを聞いた。(共同通信=徳永太郎)

インタビューに答えるマラソン銀メダリストの君原健二さん(2020年7月21日、北九州市)

 ―戦時中の記憶は。

 私が生まれた福岡県小倉市(現北九州市)では戦時中、米軍の空襲がありました。幼い頃だったので、小倉の実家にいたのか父の田舎の愛媛県に疎開していたのか、はっきり覚えていません。長崎への原爆投下前日の1945年8月8日には、隣の八幡市(同)にも大きな空襲があったと聞きました。

 ―陸上は戦後始めた。

 陸上を始めたのは中学2年の時です。運動会でも1等賞にも2等賞にもなったことがなく、走ることに興味はありませんでしたが、クラスメートから「駅伝クラブに入らないか」と誘われ、断れませんでした。その頃、勉強もスポーツも劣等生で、夢や希望を持てませんでした。だけど「少しでも恥を小さくしたい」という気持ちが、走る動機につながりました。

 ―戦後、戦争の名残はあったか。

 小倉には米軍が駐留していたのは覚えていますが、他にはあまり記憶はありません。中学か高校の頃だったと思いますが、米軍は当初、原爆の投下目標に小倉を選んだものの、視界不良で長崎に投下したと知りました。県立戸畑中央高(現ひびき高)時代、1人で陸上の練習をすることが多く、無意味や無駄に感じることもありました。そんな時「原爆が落ちていたら自分は死んでいた」と考え、練習に励んだことが何度かありました。

 ―高校を卒業し、実業団に入った。

 私は高校で顕著な成績は残せませんでした。どこでもいいから就職したいと思っていた卒業直前、陸上では国内屈指の強豪、八幡製鉄(現日本製鉄)が駅伝大会に出場するためのメンバーが足りず、急きょ、私が採用されることに決まりました。強いチームの一員になり、故高橋進(たかはし・すすむ)コーチ(2001年死去)に巡り合いました。「強くならないといけない」という責任感が生まれ、小さな努力を惜しむことなく取り組みました。

 ―マラソンで開花した。

1968年メキシコ五輪男子マラソンで、2位でゴールする君原健二さん(共同)

 五輪は別世界のことだと思っていましたが、62年に出場した初マラソンで好記録が出て、自信とやる気が出ました。64年東京五輪にマラソン日本代表に選ばれたのは、高橋コーチがいなければ達成できなかったことです。ただ、東京五輪では他の競技を見に行くなど、「心技体」のうち「心」が未熟で、本番では自己記録を大きく下回りました。一方で、一緒に出場した故円谷幸吉(つぶらや・こうきち)さん(68年に自殺)は1人で調整を続け、自己ベストを出して銅メダルを獲得しました。

 ―戦後復興を経て開かれた大会だった。

 当時は選手として競技に集中していたので、あまり考えていたわけではありませんでしたが、東京は45年3月10日の東京大空襲で10万人もの人が亡くなるなど、戦争で焼け野原になりました。それから19年。高速道路ができ、新幹線も走るまでに復興し、日本が一つになって迎えた素晴らしい大会でした。特に若い人たちに与えた影響は計り知れません

 ―五輪は平和の祭典と言われる。

 1200年近く続いた古代オリンピックでは、競技の期間中は戦争を休止していたと言います。現代の五輪もこの精神を受け継いでおり、これからも平和の下に開催し続けてほしいと思います。今度の東京五輪・パラリンピックは、新型コロナウイルスの影響で来年に延期されましたが、何とか開催にこぎ着けてほしいと思っています。

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君原健二さん

 きみはら・けんじ 41年北九州市生まれ。64年東京五輪では8位だったが、68年メキシコ五輪で銀メダルを獲得。72年ミュンヘン五輪で5位入賞し、翌73年に第一線を退いた。2020年東京五輪では、円谷さんの出身地、福島県須賀川市で聖火ランナーを務めることが決まっていた。

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