『余生と厭世』アネ・カトリーネ・ボーマン著、木村由利子訳 穏やかな高揚

 書店で未知の翻訳書を買うのは勇気がいる。帯の「全米ベストセラー」とか「タイムズ誌絶賛」といった惹句はさほど当てにならない。訳者あとがきの賛辞は水増しされている恐れがある。

 そのいずれも本書はまとっていない。訳者は褒めるどころか戸惑い気味だ。しかも卓球の元デンマーク代表選手という経歴を持つ臨床心理士の著者が初めて書いた小説だという。最初の3ページを立ち読みする。レジに向かった。

 1948年のパリ。72歳になる5カ月後の引退を指折り数えて待つ精神科医の前に、自殺と自傷の衝動に苦しむドイツ人の既婚女性アガッツが現れた。診療を重ねるうちに彼女に惹かれていく医師は、患者の苦悩に向き合わず、他人と関わろうとしなかった自らの人生を見直し始める。

 次第に癒す者と癒される者の関係が逆転する。死期が迫る男性を見舞った医師は「私は人を愛したことがないのです」「実は私もいつも怯えています」と初めて本心を明かす。アガッツからは「先生、ご自分の悩みに目を向けることもなくて、どうやって他人の苦しみを癒す生き方ができるのですか?」と問い詰められる。無風状態だった医師の心と生活に立ったさざ波は、やがてうねりを伴って彼の人生を根底から変えていく。

 数ページの節が連なる本文140ページ余りの中編。シリアスな主題ながら全編ウィットに富み、筆致は静かで抑制的だ。意表を突く展開も仕込まれ、最後まで穏やかな高揚感が続く。

 ただ、タイトルがいただけない。原書タイトルは『Agathe』(アガッツ)。これもあまりに味気ない。自分ならどういう邦題を付けるだろうか。

(早川書房 2300円+税)=片岡義博

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