甲斐バンド「THE BIG GIG」Ⅱ 新しい時代にふさわしいリアルなメッセージ 1983年 8月7日 甲斐バンドの野外イベント「THE BIG GIG」が都有5号地で開催された日

『甲斐バンド「THE BIG GIG」Ⅰ 都会のど真ん中で行われた大型野外コンサート』からのつづき

ライブバンドとしての甲斐バンド、スリリングで迫力あるステージ!

1983年8月7日に行われた甲斐バンドの野外コンサート『THE BIG GIG』は、甲斐バンドが、時代の流れのなかで大胆に変化してゆく姿を象徴するコンサートだったのだと思う。

福岡で結成され、1974年に「バス通り」でデビューした甲斐バンドは、「裏切りの街角」(1975年)のヒットこそあったものの、しばらくは大きな脚光を浴びる存在ではなかった。70年代の印象で言えば、同じ福岡出身のチューリップと比較されることも多かった。それも、チューリップの陽に対して甲斐バンドは陰。乱暴に言ってしまえば、チューリップをビートルズに例えられるとすれば、甲斐バンドはローリング・ストーンズというイメージもあったと思う。

しかし、甲斐バンドはその後、ライブバンドとしてのスキルを磨きあげ、スリリングで迫力あるステージで定評を得ていった。僕自身、おそらく1978年7月の日比谷野外音楽堂だったと思うけれど、彼らのステージを観て自分の先入観がまったく違っていたことに気づかされた。彼らは、純粋に音楽表現の力を研ぎ澄ましたアグレッシブなロックバンドだった。ミラーボールを使ったスペクタクルな演出も、あくまでも演奏のインパクトを高めるためのものだった。初期の楽曲に感じられた歌謡曲的テイストも、アグレッシブな演奏によって個性へと昇華されていた。彼らは、あくまでも日本のリスナーを対象にした、オリジナリティあるロックミュージックの創出に全力を傾けていた。

シングル「HERO」の大ヒット後、アグレッシブなバンドサウンドを追求

80年代に入る頃、甲斐バンドはさらなる進化へと向かっていった。現象的に見ると、1979年にCMタイアップによる「HERO(ヒーローになる時、それは今)」を大ヒットさせてブレイクし、ベストアルバム『甲斐バンド・ストーリー』をヒットさせていた。

しかし、ベーシストの長岡和弘が体調不良で脱退したこともあり、甲斐バンドはこのタイミングで新しいステップに入っていったという印象がある。たとえば長岡和弘脱退後初のシングル「漂泊者(アウトロー)」(1980年)では、畳み掛けるようなアグレッシブでドライブ感あふれるビートを打ち出していく。そして、同年に行われた大型野外コンサート『100万$ナイト in HAKONE』でも一曲目に「漂泊者(アウトロー)」を演奏して、バンドとして向かって行こうとする方向性を示した。さらに翌年、大阪・花園ラグビー場で行われた『KAI BAND SPECIAL LIVE 1981』でも、ポリリズムによるアフリカンビートを打ち出した最新曲「破れたハートを売り物に」を一曲目に演奏し、既成のロックバンドとは一味番うアグレッシブなバンドサウンドを追求していく姿勢を示していった。

レコーディング技術へのこだわりと、ボブ・クリアマウンテンの起用

甲斐バンドの意欲的姿勢が発揮されていったのはライブだけではなく、レコーディングにおいても、よりエモーショナルなサウンドを求めていく。その象徴が、1982年にニューヨークでエンジニアにボブ・クリアマウンテンを起用してトラックダウンを行ったアルバム『虜 -TORIKO-』だ。ボブ・クリアマウンテンは、デビッド・ボウイ、ローリング・ストーンズなど多くの名作を手掛けたエンジニア。甲斐よしひろは、けっして自分のレコードに “ハク” をつけるために彼を機用したわけではない。演奏スタイルやビートの新しさだけでなく、レコードの音質にもこだわって “甲斐バンドの音” を完成させるために世界的視点で必要な人材にアプローチしていったのだ。そうした “音” の追求の成果が、『虜 -TORIKO-』、そして続く『GOLD / 黄金』(1983年)、『ラヴ・マイナス・ゼロ』(1985年)と続く “ニューヨーク三部作” として結実していった。

当時、この彼らの音へのこだわりが、必ずしも多くの日本の音楽ファンに理解されていたとは言えなかったのかもしれないと思う。当時は、日本のメーカーから発売された洋楽レコードとは別に直接海外から輸入された洋盤レコードを取り扱うレコード店も増えてきていた。そうした洋盤レコードを日本のメーカーから出ている同じアイテムと比べた時に、音質がかなり違うことに気づく音楽ファンもいた。その違いの原因は、エンジニアをはじめとするレコーディング・スタッフの “良い音” へのこだわりの差だった。もちろん演奏の良さも大事だが、アナログレコーディング技術が成熟機に達していった80年代の名盤の多くには、そうしたレコーディング技術へのこだわりが込められていた。

それでも、80年代初期の日本では、ミックスダウン、マスタリングなどの技術者の腕と志が、良い音のレコードをつくるためには欠かせないことに気づき、自分のレコーディングでも細部にまでこだわるアーティストは、まだ多くはなかった。そんな時代において、甲斐よしひろは、レコーディング技術に世界基準でこだわる先進的アーティストのひとりだった。

ニューヨーク三部作「虜 -TORIKO-」「GOLD / 黄金」「ラヴ・マイナス・ゼロ」

『GOLD / 黄金』は、そんな80年代の甲斐バンドの音楽性の結実とも言えるアルバムであり、自信作でもあったのだと思う。1983年に新宿の都有5号地で行われた『THE BIG GIG』において、『GOLD / 黄金』に収録されている10曲中8曲が演奏されている。そのことからも、このアルバムが彼らにとっても自信作だということが伺える。

さらにニューヨーク三部作の1作目にあたる前作『虜 -TORIKO-』からも9曲中4曲が演奏されており、これらだけで全演奏曲の過半数というセットリストになっている。もちろん「ポップコーンをほおばって」「安奈」などの人気曲も演奏されたが、この日には「裏切りの街角」「HERO」といった大ヒット定番曲が演奏されなかった。こうした選曲にも、過去のヒット曲に頼らずに、新しい時代にふさわしい音楽で自分たちのリアルなメッセージを届けていこうとする姿勢が見て取れる。そして、実際に彼らは会場そして周囲に集まった3万人を圧倒的なパフォーマンスで魅了した。

『THE BIG GIG』を成功させた甲斐バンドは、1984年にギタリストとして元ARBの田中一郎を正式メンバーとして加入させ、1985年にはニューヨーク三部作の完結作となるアルバム『ラヴ・マイナス・ゼロ』を発表するが、1986年に解散することとなった。それは、常に発展、革新していく彼らの音楽への意欲、ビジョンが、現実的なバンドのスケールを越えてしまった結果だったのかもしれないとも思う。

バンドの維持を最優先に考えるなら、甲斐バンドの80年代はあまりに振幅が大きすぎ、安定から意識的に遠ざかっていく過程のように見えるかもしれない。しかし、バンドの価値を、どんな音楽を世に届けていったかで見るならば、80年代の甲斐バンドが、その後の日本の音楽シーンに多くの貴重な先例、そして示唆を残したことは確かだと思う。『THE BIG GIG』は、まさに80年代の日本の音楽情況における甲斐バンドの存在理由を凝縮させた象徴的なイベントだった。改めてそう思う。

カタリベ: 前田祥丈

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